ある日の情景



SCENE 0 〜月明かりの夜 -Julious-

女王交代直後の混乱は終息しつつある。緊張を強いられた、あのあわただしかった日々が嘘のようだった。平穏な宇宙は、守護聖の首座の仕事を確実に減らしていた。次々と難しい問題が起こり続けた頃のように連夜遅くまで執務にいそしむ必要はない。であれば、仕事が趣味なのだとまで言われたジュリアスといえども無理に執務室にこもっていようなどとは思わなかった。実際のところ仕事が趣味というのは風評であって、彼自身にはそんなつもりはない。すべきことがあるからしていただけのことに過ぎない。すべきことが減った今は執務を切り上げるのも早くなっている。それでも他の守護聖たちが帰っていったあとまで残っているのは相変わらずだった。
その日も少し遅くまで執務室で書類の処理をしてから館に戻ろうとしていた。が、車寄せまで来たときにふと見上げた月の美しさに、たまには歩いてみようという気になったので馬車は先に帰すことにした。

それは金の曜日で、勤勉な首座もそれなりの解放感を味わっていた。もともと体を動かすことが嫌いな方ではない。歩くのは苦ではなかった。心急くことがないこんな夜は、そぞろ歩きもふさわしい。
そう、確かに最初は月を愛でながらぶらぶらと歩いて帰ろうと思っただけだったのだ。馬車で帰るときは手元の書類を確認したり、翌日の段取りを考えたりと執務の続きのようなことをしている。たまには何も考えずに夜空を見ながら歩くのもよかろう、ただそれだけの気持ちだった。ところが月明かりの中、館への道をたどりながら、これまで考えてもみなかったようなことがふと心に浮かんだ。

私は何がしたかったのだろうか
むかし心に描いたことは何であったか
……心のままに思い描いた未来があったのか

立派な守護聖になること
立派な守護聖であること
女王陛下の忠実な臣下であること
宇宙を守ること

それが全てだった。だが、と彼は痛みとともに幼かった頃を思い出す。月の魔力が呼び起こしたものか。常日頃の抑制の外れた心に、閉じこめてきた感情は恐ろしい強さで迫ってきた。


良い香りのする母上の膝に抱かれてみたかった


封印した思い
それは禁忌
うかつに触れると自分の存在がおぼつかなくなる

何を今さら、と彼は首を振る
そのようなことを思ってみても取り戻す術はない
苦しいだけの思い
そのようなものにとらわれるなど、愚かしいことだ

安定した宇宙は、ジュリアスという存在を形作る主要な要素である「宇宙のための仕事」を減らしていた。そして彼は首座としての自分のあり方に初めて疑念を抱きはじめていた。

何事もなく流れていく日々
それは幸福なのだろうか
恐らくそうなのだろう

「恐らく」「だろう」そういうあいまいな言葉でしか幸福を語ることができない。これまでは幸福の意味を問うことなどなかった。絶望的な状況の中で全体を生かすために必死だったからだ。なるべく多くの命を救うことが彼の使命だった。そして自身を思う余裕ができてみれば、途方に暮れている自分がいる。自分のために何かを考えたことがなかったから。
個人の楽しみとしての趣味がないわけではなかった。貴族階級と呼ばれるような人々がたしなむことならば何でもできる、それも人並み以上に。首座としての職務は無論きちんと果たしている。欠けているものは何もないはずだ。それでいて彼は空洞を抱えていた。
自らがおそろしく空虚であることに気づくと、やわらかい聖地の夜風すら冷たく感じられる。月の光に照らされながら歩いた。ただ歩いた。美しい月も聖地も、目には入らない。
心の奥底に沈めた母へと思いを馳せたことが引き金となって彼を不安定にしていた。ジュリアスがそれを禁忌として長年封じ込めて来たことはまさに正しかったに違いない。

「ジュリアス」
呼ばれて振り返る。道の傍らにある木の根方にクラヴィスが座っていた。
「何をしている、このようなところで」
問われたが、物思いに沈んでいたために即座に返答することができなかった。相手からの答えを得られぬまま、独り言のようにクラヴィスが続けた。
「珍しいことだ…お前が馬車を使わぬとは」
「……歩きたかっただけだ」
「少しつき合わぬか」
「そこに座れとでも?」
「…疲れた顔をしている…しばらく休んでゆけ」
しばし迷った。
何ゆえの逡巡か。
地面に直に腰を下ろすことへの嫌悪はなかった。正装が汚れるかもしれない、それは確かに普段であれば嫌うであろうことだったが、今はどうでもよかった。
考えていたのは、ここでクラヴィスの傍らに座ることの是非。誘いに乗ると何かが変わる予感がした。よく考えなければ、焦りの中でジュリアスは思う。が、長く迷うことはできなかった。視線を外すことができないまま、自分を見上げるクラヴィスの瞳に引かれるように、彼の傍らのごく近い場所に腰を下ろしていた。クラヴィスの表情が柔らかくなる。その表情そのままの柔らかい語調で再度尋ねられた。
「…どうした」
口にするほどの何があったわけでもない。
「別に何も」
「そうか」
それ以上の詮索はなかった。

二人の言葉が途切れてしばらくすると虫の音が、最初はかぼそく、ひとつ、ふたつ。そしてだんだんに増えた涼やかな音の重奏に、ジュリアスはクラヴィスがここで何をしていたかを悟った。虫たちがまた黙ってしまうのを恐れて、クラヴィスの耳元に唇を寄せてひくく声をかけた。
「これを聞くためにここにいたのか」
驚いたようにジュリアスの顔をのぞき込んだクラヴィスの顔に微笑が広がった。続いて、そうだ、と軽い肯定の動作。いつになく棘のない空気に、それまで微かに残っていた緊張もほぐれていく。
今なら。
何をしてもいいような気がした。
この場所でクラヴィスに出会うまでの空虚さの代わりに、今はあたたかい思いが胸に満ちている。ジュリアスはそっとクラヴィスにもたれかかった。心なしかクラヴィスも自分に身を寄せてきたように思えた。

空を見上げると、愛でようと思っていた月が枝葉ごしに見えた。
ひときわ高くなった虫の音に包まれて月を見る。
冷えた外気の中で人の温もりを間近に感じながら。
それはひとつの幸福かもしれない。

母はもういない。が、クラヴィスはここにいる。
難しく考えることなどない。幸福はここにある。





■BLUE ROSE■