1. ご乱心
その朝もいつもと何ら変わりなく定例会議が終わり、守護聖たちは三々五々席を立って部屋を出ようとしていた。クラヴィスも立ち上がり、ドアを目指すのかと思いきやなぜかこの日に限って首座の隣に立った。首座はいまだ着席したままである。傍らに佇む巨大な黒い影に不審そうに目を上げて、ジュリアスは尋ねた。
「何か話でもあるのか?」
クラヴィスの瞳と目が合って、どきりとした。
「話、ではない」
「では」
何だ、と言いかけたが、いきなりクラヴィスが膝をついて見上げてきたので、びっくりして声が途切れた。クラヴィスの動きを目で追っていたジュリアスは、ふわりと微笑んだ顔に魅せられて金縛りにでもあったように身動きが取れずただ見返すばかりだ。クラヴィスはそんなジュリアスの右手を取って、手の甲に軽く唇を押し当てた。
ぼーぜん。
な、な、な……何をした、クラヴィスは!?
一瞬の間の後、首座の怒声が響いた。
「何のつもりだ!」
再度ジュリアスを見上げたクラヴィスは、手を取ったまま、微笑を消さないまま言った。
「我らが首座に敬意を表した」
さらりと衣擦れの音をさせて立ち上がると、あっさりジュリアスの手を放して背を向けて、闇の守護聖は悠然と会議室から出て行った。リュミエールが紙のように白い顔色で、小走りにその後を追う。
他の守護聖たちのほとんどがその場面を目撃して、ジュリアス同様に呆然としていた。何しろ筆頭守護聖の二人は犬猿の仲で通っている。クラヴィスがジュリアスに、王に対する臣下のごとく、あるいは姫に対する騎士のごとくひざまずく形を取ったなんて、あり得ないとしか言いようがなかった。
あのクラヴィス様が、ジュリアス様に対して膝を折る!?
何かっていうと首座をからかったり突っかかったり、いじめっこ小学生男子のような真似ばかりしていたクラヴィス様が?
「首座に敬意」?
クラヴィス様、どうしちゃったんだろう?
何か悪いもんでも食べた?
それが皆の正直な気持ちだ。自分が見たものが信じられずに互いに顔を見合わせて、互いの驚愕覚めやらぬ表情を見て悟る。今のは現実だったのだと。
「いったい……何が起こったんだ……?」
つぶやいたオスカーの言葉は、そこにいる全員の気持ちを代弁していた。
2. 第二の被害者
あの日の定例会議後クラヴィスが首座に対して行ったことについては、仲の良い守護聖同士の間で時おり話題に上るものの、何だったのかわからないという話に終始した。多分あれも首座への嫌がらせの一種なのだろうといった憶測がなされている程度である。クラヴィス自らそれについて言及することなどもちろんなく、なぜ唐突にあんな行動に出たのか、本当のところは誰も知らない。
とある晩のこと、例によってリュミエールは闇の館を訪れてハープを奏でていた。
クラヴィスもまた例によって例の如くソファに半ば身を横たえ、目を閉じて楽の音に耳を傾けていた。
「クラヴィス様……」
「…ん?」
「少々お尋ねしたいことがございます」
「何だ」
「先日の会議室での件ですが」
会議室での件、とわざわざリュミエールが言うのは、ジュリアスとの一件に違いないだろうとクラヴィスは思ったが、察したとは言わない。
「何の話だ」
「ジュリアス様に……手に、くちづけをなさいました」
ここでようやくクラヴィスは目を開いて、リュミエールを見た。
それが何か? と言わんばかりの表情に、リュミエールは少し赤くなる。
「あれはどういう意味があるのでしょう?」
「意味も何も……あの時に言ったとおり、首座殿に敬意を表しただけだ」
「……今までそのようなことはなさいませんでしたのに」
「気が向けば、する」
気が向いただけで、いきなりあんなことをするのですか、あなたは!
捉えどころのない人だとは思っていましたが……クラヴィス様、やはりあなたは私の理解を超えていらっしゃいます……。
リュミエールはため息をついて、
「さようでございますか」
とだけ言い、別の曲を奏で始めた。と、クラヴィスが身を起こして、演奏を続けるリュミエールの前に立つと、やおら身を屈めて額に軽くくちづけた。
「……な、何、を?」
未だかつてこんなことをされたことはない。さすがに演奏する手を止めて、どもり気味にリュミエールは言って、「ああ」と納得したような声を出した。
「お気が向かれたのですね」
「と言うよりは」
「予行演習、とでも言うべきか…」
フッと小さな笑みで答えたクラヴィスに、リュミエールは首をかしげた。
「いや、友情とはどういうものかと思ってな」
「はい?」
「お前と私の間にあるものは…友情であろうか…」
小さくつぶやかれた言葉を聞き取ったリュミエールの首がさらに大きく傾いた。あまりに唐突な言葉は、クラヴィスの奇矯な言動に慣れたリュミエールをも混乱させた。
友情かですって? そのようなこと、私にだってわかるものですか、クラヴィス様……。
やはりあなたという方はわからない。けれどもその謎めいたところがまた私を惹きつける一因でもあるのですよ。
友情。
確かに、わかりやすく言うなら二人の間にあるものは友情というのが一番近いのかもしれない。だが単に友人とクラヴィスを呼ぶには、リュミエールはクラヴィスに囚われすぎている。
物静かな二人の間に流れる空気は独特で、一見さらりと乾いた関係を保ちながらもその実親密で、濃密であるとすら言える。この関係を言い表す言葉を、リュミエールは知らない。少なくとも他の誰ともこのような関係を築けたことはなかった。恋とも違うこの感情は、リュミエールの側からならば傾倒とでも呼ぶべきか。
言葉を返すことなく微笑みかけると、リュミエールはハープを構え直して新たな曲を爪弾き始めた。
3. カタルシス
例によって例の如く、クラヴィスが書類をためている。本来ならもっと早くに提出しなければいけないものがいくつも。数日前に苦言を呈してからしばらく静観していたジュリアスだったが、これ以上は我慢できないとばかりに、隣の執務室を再訪したのだった。
「クラヴィス」
「…何用だ」
「また仕事を滞らせているであろう」
「別段急ぐものではないと思うのだが…?」
「それにしても、限度というものがある。新しい案件も次々と出てくるというのに、いつも月次報告等の提出を怠っているそなたにはほとほと困っているのだ」
「それでわざわざ尊いおみ足をここまでお運び下さったのか、首座殿は」
面白そうな顔をされて、ジュリアスは面白くない。別に来たかったわけではない上にそんなふうにからかわれて、大変に気分を害した。自然と声音もきつくなった。
「クラヴィス!」
すると相手は、
「まあそう怒るな。お前の言っているのは…これか」
と書類を一束、引き出しの中から出してきた。
チェックしてみれば、あれもこれもまだかまだかと待っていたものばかり。月々のルーティンの仕事で、提出する期日は決まっているのに、そこを過ぎても出してこないのでいらいらしていたものがほとんどだ。それが一気に解消されて、カタルシス! ではなくて。
「……全て仕上がっているようだが……それならばなぜ、さっさと提出しないのだ!?」
最後はいささか声を荒らげ気味だったが、もっともな言い分である。ジュリアスとしては最大限の譲歩をして、待ったのだ。少々声が高くなるくらいのことは致し方あるまい。
この首座の不機嫌全開の声に対して、予想外の返答がなされた。
「お前の顔が見たかったから」
「は?」
意味がわからなくて聞き返したジュリアスは、目の前のクラヴィスが立ち上がるのを見て思わず一、二歩後退った。何だかコワイ。
「事務官を通すと、お前の顔が見られないではないか…。わざわざご足労をおかけした首座殿には、礼をせねばな」
何が起ころうとしているのか。青い目を大きく見張っていたジュリアスは、蛇ににらまれたカエルよろしくそれ以上動けないまま、執務机を隔てて相対していた人物が自分の脇へとやってくるのをただ見ていた。
「ありがとう」
という言葉と共に、頬へのキス。
「な……何をする!」
ジュリアスは思わずクラヴィスを押しのけた。
「気にするな。単なる礼だ。お前の厚意に厚意を返したまで」
「厚意?」
「書類を取りに来てくれたではないか。それは厚意であろう?」
そうだろうか。自分は厚意でクラヴィスの許にやってきたのだろうか。
――いや違う。断じて、そうではない!
私は単に、苛立ちを解消するためにクラヴィスを叱責しようとここへやってきたのだ。厚意、などは微塵も含まれておらぬ。
案に相違して書類が仕上がっていたために叱り飛ばす必要がなかっただけで、根本のところで私はクラヴィスに腹を立てていたはずだったのだが。
……よくわからない。
クラヴィスの言動に惑わされて、何だかよくわからなくなってしまったが、とりあえず問題の書類はでき上がっている。これ以上クラヴィスを糾弾する理由もないので、すっかりおとなしくなったジュリアスは書類を掴むと執務室を出て行った。
なぜクラヴィスが私の顔を見たがるのだろうか。意味がわからぬ。
厚意だと決めつけられて頬にくちづけまでされた。
一体何だったのだ……。
思えば、クラヴィスはこの前から少しおかしい。会議室でもいきなり人の手を取ってくちづけたのだった。今回の件も、何もかもが腑に落ちない、と首をかしげながら自分の執務室に帰るジュリアスであった。
4. えーっと……?
クラヴィスの執務ぶりは相変わらずで、上がってくるべき書類はなかなか提出されない。そんなことにはもう慣れっこの首座は、いつまでも放置しておくわけにも行くまいと一週間に一度くらい、自ら書類を引き取りに行く。特に重大な案件ならばいざしらず、ルーティンの報告書のようなものは事務官の手を通すのが普通だ。けれどもクラヴィスはそれすらも自室にためこむ。隣の部屋に控えている事務官を呼んで手渡せばいいだけなのに、それをしない。首座が自分のところの事務官を差し向けてものらりくらりと言い訳をして、決して渡さない。仕方なくジュリアスが出向く、ということがここ10年来行われているのだ。
出向いたついでに叱責したり、苦言を呈したり、脅迫したり(常に手許に置いておきたいほどに書類が好きならばもっと増やしてやろう、とか)、およそありとあらゆる手を尽くしたが、クラヴィスに変化なし。悠然とマイペースを貫く。
それがこの数週間というもの、書類を取りに行ったらすでにでき上がっていて、来てくれた礼だと言われて頬にキスされるということが続いている。それが何なのかよくわからなくて、何を言い返したらいいかもわからなくて、混乱したジュリアスは文句の一つも言えずに書類を手に大人しく自分の執務室へと戻る、というのがここ最近のトレンドだ。
そして今日も。
「もうできているのであろう? さっさと出せ」
少し疲れたようにジュリアスが促すと、クラヴィスはきちんと仕上がっている書類を出し、それを持ったまま立ち上がって、ジュリアスの横に立った。いつもなら執務机の上に置くのに、なぜわざわざ持ったままこちらに回ってくるのか、とジュリアスが不審な目を向けたら。書類をつかんだ手を目の前に突き出されて、
「この書類が要るのであろう?」
と、笑いを含んだ声で言われた。
「わかっているのなら、渡さぬか」
受け取ろうとジュリアスが伸ばした手は、書類を引っ込められて宙に浮いた状態になった。
ムカつく!
あからさまにむっとした顔をしたジュリアスに対して、クラヴィスは微笑している。
「渡してやっても良いのだが…その前に少しの間、目を閉じていてくれぬか」
なんで?
「理由がわからぬ」
「書類がほしければ私の言う通りにしてもらおう」
まるで脅迫のような台詞である。
「言う通りにしなければどうなる?」
ジュリアスの声はいささか怒気を含んでいる。
「お前は手ぶらで帰ることになろうな…」
顔も声音も穏やかだが、やはり脅迫っぽい。
ジュリアスは一瞬クラヴィスをにらみつけたが、クラヴィスの表情が思いのほか優しくて、何だか気が抜けた。
「まったく、そなたは……執務は子どもの遊びではないのだぞ」
と言いながら、目を閉じた。
クラヴィスが近づく気配があって、そして唇にあたたかくて柔らかいものが押し当てられて、びっくりして目を開いた。その時にはクラヴィスの顔は離れようとしていた。けれども今明らかに唇同士が接触していたはず。
えーーーっと……?
唖然としてジュリアスはクラヴィスを見つめた。
「何をした?」
「尋ねる必要もなかろう。気がついているのだろう?」
じゃ、やっぱり唇に……!?
「なぜ!」
「優秀であられるはずの首座殿が…その意味もわからぬのか」
唇を触れ合わせるのは恋人とか、夫婦とかではないのか。
なぜ私とクラヴィスがくちづけをせねばならぬのだ!!
「何のつもりだと訊いている!」
「さて、な。普通どういうときにしたくなるかを考えてみれば、答えは明らかであろう」
明らかって……それはつまり、恋人、とか。夫婦とか。
自分とクラヴィスは夫婦ではあり得ないので、恋人、それもだいぶ無理があるような気がするけれど。
恋人、ということはつまり、その相手を好きということで、つまりはクラヴィスは私を好き……?
思えばこのところ書類を取りに来るたびに頬へのキスはされていた。しかし。
好きだなんて、ましてや愛しているだなんて、一度も言われたことがない。
くちづけというものはきちんと愛を告白してからするものではないのか……?
悲しいかなそうした経験皆無のジュリアス、自分の見解に自信が持てないまま、頭の中身は大混乱をきたしている。男同士で愛を告白してキスを交わすの自体が一般的ではないということに思いが及ばないほどに、混乱しまくっている。この状況下で、この男の顔を見ながら冷静に考えをまとめることなんかとてもできそうにない。こういう場合は一時撤退するに限る。
気を落ち着けて、よく考えなければ。
「帰る」
一言、ジュリアスは言い捨てるとクラヴィスの手から書類をもぎ取って、どすどすと足音も高く闇の執務室を出て行った。
「にぶいお前でもさすがに気がついてくれたか…」
微笑を消すことなく闇の守護聖はひっそりとつぶやいた。
5. 仕事の虫にありがちなこと
新宇宙は生命力にあふれて生き生きとしている。あちこちで新しい星が産声を上げ、それら赤子の星々を見守るのに王立研究院も守護聖たちも忙しい。
旧宇宙からの移動から間がないこともあり、首座は以前と変わらぬ仕事量に忙殺されていた。しかし危機を脱するための忙しさに比べて、新たな生命の誕生を見守るのは、忙しさの程度は同じでも精神の消耗や疲れ方が違う。ジュリアスは至って元気に激務をこなしており、体が休息を求めていることに気づくことなく充実した毎日に満足していた。
旧宇宙から辛くも滅亡を逃れて新宇宙に移動した星の中には、非常に古い星もある。中には新宇宙に移って早々に寿命を迎える星もあり、終焉が近づくにつれ膨張して周囲の惑星を飲み込み始めていた恒星の対処にジュリアスはこのところ忙しく、研究院と宮殿を行き来する生活を余儀なくされていた。それでも何とか惑星の民の移住の手配が整ったのを確認し終えて気が緩んだか、研究院で倒れたのである。
星が平穏に最期を迎えられるようクラヴィスも頻繁に研究院を訪れて様子を見ており、その時も居合わせた。
「ジュリアス様!」という声とばたばたと慌しく走りまわる人々の輪の中心に、ジュリアスは倒れていた。豪奢な黄金の髪と衣装の白が目を引く。
「どうした…?」
厳しく引き締まった蒼白の顔で、クラヴィスが近づいてくる。ここに彼をよく知る者、たとえばリュミエールがいたとしたら、クラヴィスの表情に非常な心痛を見て取っていささか驚いたかもしれない。
「あ、クラヴィス様」
研究員が口々に状況を訴える中、クラヴィスは無言のまま首座のそばで膝をつくと、頬に手を触れた。サクリアの乱れや悪い気は感じ取れない。大きな病気というわけではなかろうと少し安堵して、身をかがめて耳に口を寄せ、ごく低い声で尋ねた。
「どこにいるか、わかっているか」
目を閉じたままのジュリアスから、答えが返った。
「……王立研究院に決まっている」
「では、寝るな」
「そなたではあるまいし、このようなところで寝るものか。ただの立ちくらみだ」
「鬼の霍乱、といったところか…」
「誰が鬼だ」
ジュリアスは他の者たちには聞こえない程度の小声で気丈に言い返してきた。それだけ文句を言えるならば大丈夫だとクラヴィスは微かに笑みをこぼした。幼なじみの微笑を不思議そうに見上げながら、肘をついて起きようとしたジュリアスは、立ち上がる前にクラヴィスに抱き上げられた。
「おい何をする!」
と抗議したが、
「立とうとしてまた倒れたりしては、皆に余計心配をかけるとは思わぬか」
とクラヴィスに囁かれた。実のところまだ周囲がぐらぐらしている。言われたことはもっともだと首座がおとなしくなったところで、クラヴィスは周囲に声をかけた。
「このところジュリアスは根を詰めていたのであろう? 少し疲れがたまっているようだ。心配はいらぬゆえ、みな仕事に戻るように」
「ですがクラヴィス様、これまでも非常にお忙しい状況は多々ございましたが、お倒れになるなどなかったことです。念のため診察をお受けになったほうが」
「そうだな…消滅する星の民を安全な場所へ移す手配は、滞りなく終わったのだな?」
研究員は「はい」と答えた。
「ではジュリアスが抜けても問題なかろう。まずは館に帰してしばらく休ませて、執事には医師を呼ぶよう言っておく」
これからジュリアスを館に送るが、星の様子に不穏な変化が見られたら自分を呼べとクラヴィスは言い、二人は王立研究院から出た。
突然の馬車の到着に驚いたのは光の館の面々である。闇の守護聖が主を抱いて降り立ったのを出迎えた執事は、
「疲労で倒れた。寝室まで運ぶ。目覚めたら何か消化の良いものを食べさせてやってくれ。あと…念のため、医師の診察を受けるよう手配を」
と命じられた。言いながらクラヴィスは、そのまま館の中へと入った。いくら主が光の守護聖だからって、守護聖様に運ばせるなんて恐れ多いとばかりに「後は私どもにお任せください」と言う執事には取り合わずに、
「寝室の場所は昔から変わっておらぬな?」
と確認してさっさと歩いていく。
結局クラヴィスが寝室まで運び、ベッドに横たえてやってサークレットを外したりサンダルを脱がせたりして、甲斐甲斐しく世話をするのを館の者が見守るだけということになった。少しジュリアスに話がある、しばらく二人にしてくれとクラヴィスに言われて皆が退出してから、クラヴィスは密やかに声をかけた。
「ジュリアス、眠っているわけではなかろう?」
「……世話をかけて、すまぬ」
クラヴィスに運ばれて館に帰ってきたことも、自分の寝室で寝かされていることも、果てはクラヴィスがあれこれ世話を焼いたことも、すべてわかっていてあえて文句を言わなかったらしい。きまり悪いが手助けなどいらぬとクラヴィスの手を振り払うことができないくらいには疲れていたものか。
だが以前の彼なら、倒れるほどに疲れていようと手は借りぬと意地を張り通したに違いない。
誇り高いジュリアスが黙って自分の世話を受けている、これは脈ありと見ていい。そう思って、クラヴィスの口元がほころんだ。
「しばらくここにいてやるから、大人しく眠れ」
笑みを湛えた口から出る言葉は、いてやるだの大人しくだのとまるで子供扱いを受けているようなのがいささか気に障る。そのくせ響きは優しくて、その声をいつまでも聞いていたいようにも思う。ジュリアスはそんな自分の弱気を振り切るように、
「そなたなどいなくとも眠れる」
と強がったが、声にはいつもの張りがなかった。
「ああ、わかっているから言う通りにしろ。…それにしても人には体調管理がどうのとうるさいくせに、今回のこれは失態だな。お前の体は鉄でできているわけではないのだ。己も人の子であることを思い出して、少しは厭え」
いつもなら反発を覚えるような物言いしかしないクラヴィスの声は、今は限りなく優しく、ほのかに笑いを含んで、心にしみるように届く。自然とジュリアスも素直な答えを返していた。
「少々……体力を過信しすぎたようだ。これからは気をつける」
「旧宇宙が危機にあったときには八面六臂の働きをして平気だったというのに、今頃になってこの有り様とはな」
というよりも、むしろそれゆえかもしれない。
旧宇宙からの移動という大異変の後始末もおおむね無事に終わって、さしもの首座も少し気が緩んでいた。以前ならば持ちこたえられたはずのものが、今回は不覚を取った。
そのことを、誰よりも本人が自覚している。クラヴィスに言い返すことなく、先程と同じ言葉を繰り返した。
「だから気をつける、と」
ため息を吐き出したジュリアスの頬に、クラヴィスはそっと触れた。
「悪かった。もううるさく言わぬから、眠ってくれ」
「ああ……」
ほどなく聞こえ始めた寝息にクラヴィスは目を細め、閉ざされた瞼にそっとくちづけた。
6. 二人で食事を
先日、ジュリアスは研究院で倒れた。そのときに親切にも館まで運んでくれたのはクラヴィスだった。往診に来た医師の診断は、クラヴィスの見立て通り過労だった。
「私は寝込んで執務を滞らせるわけにはいかぬ。薬で何とかならぬものなのか?」
と、いかにも仕事人間にありがちな反応をしたジュリアスに、医師は眉をくもらせた。ここ最近の首座の仕事ぶりについて執事から話を聞いた医師は、
「今日のところは栄養剤の点滴でもしておきましょう。明日から出仕なさってかまいません。ですがジュリアス様、いくらお若くても不眠不休ではお倒れになって当然です。短期間ならば薬を使ってごまかすこともできますが、そんなことを続けていれば体を壊してしまいます。過労には休養が何よりの薬なのですよ。これから一週間はご無理は控えて、お仕事は必ず定時で切り上げてください。決して残業などなさらないように。そして休日はきちんとお休みをお取りになってください」
と釘を刺して帰っていった。
本来真面目なジュリアスである。その後医師の言いつけをしっかりと守り十分に休養を取って、すっかり元気を取り戻した。
倒れる直前に何とか終えたばかりの民の移住の手配について、どうなったかが気になって研究院に問い合わせたら、クラヴィスのフォローが完璧で、何も問題はないと聞かされた。ジュリアスを館へと連れ帰る前の職員への指示も的確で行き届いたものであり、半分朦朧としながら聞いていたものの、クラヴィスはやはりやればできる男なのだという印象が強く残っていた。今回のことではすっかり世話をかけてしまって、きちんと礼をせねばならぬとずっと思っているのだが、その礼の仕方が案外と難しい。物を贈るといっても何が好みかわからない。いったいどうしたらいいのだろうか、とジュリアスはひそかに悩み抜いていた。そんなこんなで、体は元気になったというのに心が晴れずにいたある朝のこと。執事の言い出した言葉にジュリアスは目の前が開ける思いだった。
「ジュリアス様がお倒れになった際、クラヴィス様には一方ならぬお世話になりました。快気祝いというのは大げさに過ぎますが、一度晩餐にお招きするなどして感謝の気持ちをお伝えしてもよろしいのでは?」
「招く?」
「幼い頃には仲良くお食事を召し上がったり、お泊りになったこともある方です。お二人が成長されてからはすっかりそういうこともなくなりましたが、この機会に旧交を温めるのも悪くない考えかと思います」
ジュリアスの表情が明るくなった。
「そう……だな。あの日はクラヴィスはすぐに帰ったということであったし、その後も礼は言ったが……そういう席を設けるのは良いかもしれぬ」
言いながら、何となく心が弾んだ。それはなかなか良い提案だと思った。
「そのようなことは思いつきもしなかった。さっそく実行に移すとしよう。お前の進言には感謝する」
執事は軽く頭を下げると、その場を下がっていった。
普段は気にもとめない心臓の音が、何だかやたらにとっくんとっくんと響く。胸のあたりがほっこりとあたたかい。それが何であれ、悪い気分のものではなかった。というよりもむしろ、嬉しいらしい。これはもしかしたら、「わくわくしている」ということなのだろうか。
クラヴィスと二人で食事することの何がそんなに嬉しいのかよくわからなかったが、とにかくジュリアスは機嫌よくクラヴィスを晩餐に招待することにしたのである。
その週の土の曜日、二人は水入らずで食事を楽しんだ。この夜はなぜか二人の空気がしっくり融け合うようで、長い間の不仲は何であったのかと不思議に思うほどの満ち足りた時間だった。そのままクラヴィスを帰すのが惜しくて、もうしばらく余韻を楽しみたくて、「私の部屋で飲むか」と誘ってみた。するとクラヴィスは少し驚いたように目を見開いて、次いで顔がほころんだ。飾り気のない笑みがとてもきれいで、ジュリアスは思わず見とれてしまった。またもや心臓がとっくんとっくんといつにない音を立てて、クラヴィスに聞きとがめられやしないだろうかと心配になるほどだ。実際にはそんなことはなく、クラヴィスは普通に言葉を返した。
「よいのか」
「無論だ。そうでなければ誘いの言葉などかけぬ」
「そうか。…では、遠慮なく」
誘いに応じたクラヴィスを伴って私室へと戻り、そこでまたさらに楽しいひとときを過ごした。ほんの少し、と思っていたはずがふと気づいて時計を確かめれば、既に日付が変わろうとする頃だった。
「これは私としたことが。ずいぶんと遅くなってしまったな。時間に気づかず悪かった」
「気にするな。どうせ私は夜更かしだ」
では、と辞去しようと立ち上がったクラヴィスとなぜかひどく別れがたい気がして、「待ってくれ」と思わず引き止めた。
何か?と目で問われて、口ごもる。
「いや……何があるというわけでもないのだが……今宵は泊まっていかぬか」
もう時間も遅いし今から帰すに忍びない、明日は休みだからこの際少々夜更かしをして友人と語り合うのも楽しいかと思うのだが。
もごもごとつぶやかれたそんな言葉に、クラヴィスは目を細めた。
「よいのか? そのような誘いをして」
ジュリアスは、やはり唐突すぎただろうか、夜も遅いのに引き止めて不快な思いをさせたかと思いながら、
「無理に引き止めるつもりはない。気が向いたら、程度のことだ。帰りたければ帰ってくれてかまわない」
と言った。その表情がいつになく頼りなげで、本当はほしいくせに「そんなものいらない」と虚勢を張る子どものように見えた。クラヴィスは屈むと、椅子に腰掛けているジュリアスの頬を両手で包んで、低い声で告げた。
「そのような顔をするな。私は拒絶しているわけではない…」
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。
そう思ったジュリアスの手を取って、いつかの会議室でのようにひざまずいて唇を押し当てた。前と違うのは、手のひらだったこと。
「何だ?」
ジュリアスはあわてた。なぜクラヴィスがそんなことをするのか、わからない。
「夜を共にとまで言われて、私がこれ以上我慢できると思うか」
我慢? 何を?
膝をつき、手を取ったままで深紫の瞳に見上げられた。真剣なまなざしに、心が震えた。
「ずっとお前が好きだった」
そんなことを言われて、心臓が口から飛び出すかと思った。とうの昔から知っていたような、そのくせ唐突すぎるような告白。
好き。
好き、って。
それはやはり……夫婦、とか恋人、みたいな意味で?
「…お前は…私のことをどう思っている?」
その問いを受けてジュリアスの心に浮かんだ答えは、「離れがたい。ずっと一緒にいたい」だった。けれども正直に今のこの気持ちを口にするのは恥ずかしすぎる。声を出すことができずにいるジュリアスは、頬を染めたことでその問いかけに答えた。
「それがお前の答えと受け取ってよいのだな? お前も…私のことを憎からず思ってくれている、と」
え? なぜ? まだ私は何も言っていない!
という気持ちが素直に表情に現れる様を愛おしげに見やって、クラヴィスは言った。
「お前がほしい。だから…これからお前にひどいことをする私を許してほしい」
何をするというのだ?
「いったい何、を……?」
声が少し震えた。
言葉の合間にも幾度もくちづけを受けている手のひらは、クラヴィスの熱を受けたせいなのか自分の緊張のなせる業か、いつのまにか軽く汗ばんでいた。立ち上がったクラヴィスは、ジュリアスの手を引くと、やわらかく抱き込んだ。
「優しくするから」
夜の闇に溶け入るような声で低くささやかれた。その声が、声に含まれる何かが、血流に乗って全身を巡り、ジュリアスの体に沁み通るかのようだった。ひどいことをすると言ったり、優しくすると言ったり、クラヴィスの言うことは矛盾だらけだ。普段ならそんな言葉の矛盾をそのままにしておくジュリアスではない。それなのに今はただ耳に心地よい声に、それが妙なる楽の音ででもあるかのように聞き入るだけだった。甘美で危険な匂いのする調べに、ジュリアスの心臓は早鐘を打っている。
気がつけば目の前にクラヴィスの顔があって、「愛している」という耳慣れない言葉と同時に唇を奪われた。
それはこれまでに頬に受けた軽く触れるだけのキスとは違う、前に唇に触れられた時ともまったく違う、情熱的なキスだった。
いつの間に舌を受け入れたのか、わからなかった。歯列をなぞってその奥へと分け入り、口内を探り突つき絡みつく舌は、それ自体が意思を持った別個の生き物のようにジュリアスを蹂躙した。
ようやく離れたときには、すっかり足から力の抜けたジュリアスは自分で立つことも覚束ないほどになっていた。
7. お前がほしい
※15禁(というほどのものでもないけど、一応)
膝から力が抜けて崩れ落ちそうになったところをクラヴィスに抱きとめられて、ほとんど唇が触れ合う距離でささやかれた。
「お前をくれ」
ゾクリと、名状しがたい感覚がジュリアスの背筋を駆け抜けた。
クラヴィスの言葉に何と答えたのか。頷いたのか、それとも否と首を振ったのか、それすらも判然としなかった。これまで見たことのないようなクラヴィスの微笑だけしか覚えていない。陶然と、その顔を見つめているうちに寝室へと連れ込まれ、いつの間にやらベッドの中。
いったいどうしてこういう状況になっているのか。覚えているのは「泊まっていかぬか」と誘ったこと。でも自分の部屋で、自分のベッドで、二人でこうしているのはなぜなのか。
知らないうちに襟元をゆるめられ、はだけられて、もう肩から上でクラヴィスの唇に触れられていないところはないくらい、さっきからキスされっぱなし。外気にさらされた素肌を、熱い息が撫でていく。
唇は首筋から鎖骨を辿り、あらわにされた二の腕の内側を強く吸われて軽い痛みを感じた。
「なぜ……そのような場所に……」
くちづけるのかと尋ねるのも恥ずかしくて、そこでジュリアスの言葉が途切れた。
「したいからに決まっている」
クラヴィスの簡潔にして正直な答えに、ジュリアスは戸惑いを隠せない。したいからする、自らの感情にそんなに素直な男だとは知らなかった、ぼんやりとそう思う。
「わからぬか? 好きだから触れたい、お前のすべてがほしい」
「なぜ私のことを……」
好きなのかと尋ねるのはもっと恥ずかしくて、っていうかこの状況自体が恥ずかしすぎて、またしてもジュリアスは口ごもった。
「私がお前を愛している理由が知りたいか」
赤くなりながらジュリアスはうなずいた。
「お前にも…好きなものはあるだろう? それらを好きだと思う気持ちに、それぞれ明確な理由があるか」
クラヴィスに問われるまでもなく、わかりきったことだ。特別な理由などない。
「ただ好きだから好きなだけだ」
「それと変わらぬ。問いただしてどうなる。人を好きになることにだけ理由が必要なのか? それこそおかしな話だとは思わぬか」
「納得が行ったような……行かぬような」
と言いかけた唇はクラヴィスの唇で塞がれた。「理屈をこねるな、もう黙れ」と言葉はいささか乱暴だったが、触れてきた唇は優しい。
その後のことはとてもじゃないけど言葉にできないような恥ずかしいことばかりだった。「やめてくれ」と言いかけても「ひどいことをすると言ったろう?」などと甘い声で返され、一向にやめてはもらえなかった。そしてクラヴィスはそのひどいことをとても優しくした。ひどいことを、優しく。事の前にそう言ったクラヴィスの言葉に嘘はなくて、その間中胸がどきどきして、とてもひどいことをされていたはずが、なぜだか気持ちよく感じられるようになりかつてない幸福感に包まれ――いつの間にか眠りに落ちていたらしい。気がつけば朝だった。
昨夜のことは何だったのか……。
上半身を起こして、隣に寝ている男を眺めてみた。白い面は夜の激しさが夢であったかのように静謐に満ちている。
なんていうことを思ったとたんに、急に昨夜のクラヴィスのさまざまな表情や甘い言葉や体に触れていった唇のやさしさやその他もろもろが思い起こされて、ジュリアスは頬を染めた。「私をやるから、お前をくれ」と熱く囁かれたのは、あれは夢か現か。何となく視線を落とすと、自分の体に目が行った。
さんざん愛された体の至るところに赤く散った、名残の花びら。
どうしてそんなにたくさん、自分の肌にそんな痕があるのかわからず、ジュリアスは指で触れてみた。ひとつひとつ触れていくうちに、突然理解した。クラヴィスがきつく吸った痕なのだと。そうとわかると見ているのも恥ずかしい。あわてて上掛けを引き上げて、その恥ずかしい痕跡を自分の目からも隠そうとわたわたしていたところ、クラヴィスに声をかけられた。
「…何をしている?」
「あ…」
おはよう、と言いかけて、声が出にくいことに気がついた。するとクラヴィスが人の悪い笑みで言った。
「無理もない。昨夜は散々声を上げたからな」
ぼんっ!! と音を立てんばかりの勢いで、ジュリアスの顔が真っ赤に染まった。
「何を言うか!」
反論する声がかすれて力のないものでは、威力半減。結局、ジュリアスからは朝の挨拶ができずにいるうちにクラヴィスから「おはよう」と言われて、唇にちゅっとキスをされた。うっかりうっとり応じている隙に、
「美しいのに…なぜ隠す?」
と上掛けをはぎ取られてしまった。さらに今度は朝の挨拶らしからぬ濃厚なキスを受け、不埒な唇はそのままあご、首、胸へと滑っていく。
「クラヴィスッ! それ以上はもう……やめっ……アッ!」
言う間に乳首を含まれ、軽く歯を立てられて、朝っぱらからアヤシイ気配全開に。
「すまぬ。お前の体があまりにも扇情的で…我慢がきかぬ」
「どういう……」
どういうことだ、と言い終える前に、クラヴィスの唇は耳元に寄せられて、
「白い肌に咲いた花が私を誘った」
なんて言われた。
そなたがつけたのであろうが!
そんな心の声を知ってか知らずか、クラヴィスはさらにジュリアスの耳に甘く囁く。
「大丈夫だ、無理はさせぬ。ただ……朝の光の中でお前を確かめたいだけだ」
朝なのに、それだけでゾクゾクするほど声が夜モード。やたら羞恥心を煽るクラヴィスの声に、ジュリアスはゆでタコと化した。
「朝から……このような……」
優しいキスにごまかされそうになりながらはかない抵抗を試みるが、この勝負、どうやらクラヴィスに軍配が上がりそうだ。
何しろ今日は休日。
そして恋を知ったばかりのジュリアスは、朝からこんな行為に及ぶなんてという抵抗感がないわけではないが、本気でいやがっているわけでもない。
ただ――恥ずかしすぎるだけ。
聖地の爽やかな朝。陽は降り注ぎ、鳥が歌う。
けれども光の守護聖の館の主の寝室では、まだまだ夜は終わらない。
【memo】
最終回は2011年11月9日、フライングだけど闇様生誕記念にわたくしからの精一杯のプレゼントです。
お二人で幸せになってください。
これはグリルパルツァーの有名な言葉をモチーフに書きました。
どんな言葉か知りたければ、「グリルパルツァー 接吻」で検索すれば見つかります。