世はすべてこともなし 番外


チビちゃんの大発見

暑い日の昼休み、幼いクラヴィスを連れて噴水でさんざん水遊びをした年少組は、芝生で休んでいた。
おチビも含めて4人揃って素足を投げ出してすわっていると、マルセルがぽつりと言った。
「いいな、二人は」
「何が『いい』んだい?」
「ぼくの言うこと笑わないって約束してくれる?」
「約束だなんだってメンドーなヤツだな。さっさと言っちまえ。笑ったりしねーからよ……たぶん」
「ほんとのほんとに笑わない? ぜったい?」
「わかったよマルセル。約束するから、話してみろよ」
クラヴィスも話に参加しているつもりか、一緒になってまじめな顔でうなずいている。
「あのね……二人ともすね毛があっていいなと思ったんだ」
場の空気が凍り、ながーーーーーーい沈黙が落ちた。

約束した手前、ランディとゼフェルは笑うのを必死でこらえていた。マルセルが真剣なことは伝わってきたからだ。口を開くと笑い出しそうになるので無言で視線を落としたまま、問題となっている足を見比べている。
二人とも体毛の濃い方ではない。すね毛というよりは産毛程度のうっすらとした慎ましやかなシロモノが陽の光で光って識別できる程度だ。だがマルセルは本当につるっつる。見事なまでにきれいな肌で、初めてまじまじと観察した二人は思わずじっと見入ってしまった。
「きれいだなあ……女の子の足みたいだ……」
半ばウットリとランディが言って、ゼフェルにつつかれた。ランディにはありがちな、無意識の失言である。
案の定。
「そうなんだよ!! 女の子みたいだからいやなんだよ!!」
マルセルは叫んだ。
「ぼくもすね毛がほしいんだ!!」
ゼフェルが鼻白んだふうにぼそぼそと言った。
「ンなこと大声でわめかなくてもいーじゃんか……」
「俺たちだって大して濃いわけじゃないよ! あったからって役に立つわけでもないし」
まずいことを言ってしまったと気がついたランディ、失言を何とかチャラにしようと必死の形相だ。残念ながらそれは火に油を注いだ。
「役に立たないって!? そんなことないよ! ぼくにちゃんとしたすね毛があったら、オリヴィエ様だってスカートはかせようとか思わないだろうし!!」
顔を紅潮させてマルセルは言い募った。
「あー……そんなコトであんま思いつめねーほーがいいんじゃね? お前もこれから生えてくるんじゃねーの? まだ15にもなってねーんだから、あせるなって」

いつも明るくてクラヴィスに優しいマルセルが、何だか怖い顔をして大きな声を出していて、ランディやゼフェルと言い合いをしている、らしい。いつになく不穏な空気に、少し眉をひそめ気味にして皆の顔を見ながら話を聞いていたクラヴィス、ぴょこりと立ち上がるとマルセルのところへ行って白い足をナデナデした。マルセルはくすぐったさに身をよじった。
「何してるの。くすぐったいよ」
言っているそばからランディやゼフェルもナデナデ攻撃を受けて、「くすぐってー!」「やめろよ」などとわめいている。
我が道を行く幼児は、今度は立ったまま体を折り曲げて自分の足をじっと見て、ナデナデ。お兄さんたちの会話を聞いていて、どうやらすね毛のことを気にしているらしいクラヴィスに、
「まだちっせーから、おめーにはすね毛なんかねーっつの」
とゼフェルがくすくす笑いながら言った。「こっち来いよ」と手を伸ばしてクラヴィスを引き寄せると、彼の耳元にクラヴィスが顔を寄せて、何やらゴニョゴニョ言った。ゼフェルもうなずいて「そーだな」とクラヴィスの頭をわしゃわしゃ撫でた。
「なぁに? クラヴィス様、なんて言ってるの?」
「マルセルは足には毛がないけど、髪の毛ながい、だとよ」
「なにそれー?」
マルセルは笑い出した。幼いなりに考えて、慰めてくれているのだろうか。
「でもクラヴィス様の言うとおりだよな。俺たちは短髪、お前だけロンゲだもんな」
「今はそれでガマンしとけよ」
「自分たちにはあるからって、かってなこと言ってくれるなあ」
マルセルはそう言いながらも笑っている。
「ぼくが一番年下だもんね。これからもっと男らしくなるよ!」
マルセルの笑顔を見て、クラヴィスもうれしそうに笑った。

そんなことのあった日の夜、いつも通りクラヴィスはジュリアスに付き添われて寝ようとしていた。
クラヴィスに上掛けをかけてやって、ジュリアスは添い寝して背中を撫でてやっていた。いつもならすぐに寝入るクラヴィスが、なぜかその晩はもぞもぞ、ごそごそと落ち着かない。
「どうしたのだ、もう寝る時間だぞ」
クラヴィスはかけてもらった上掛けをどけてしまうと、ベッドの上をジュリアスの足もとの方へと移動して、いきなり夜着の裾をめくり上げたのだった。
「!」
ジュリアス、驚きのあまり言葉を失っている。そんな彼の驚きをよそに、クラヴィスはつるりとした足をナデナデして、満足したらしい。いきなりのことに狼狽して二の句が継げずにあわあわしているジュリアスを見て、あわてて服の裾をできるだけきれいに元に戻して、枕のところまで戻ってきてごそごそと上掛けを引っ張り上げて中に潜り込むと、ジュリアスを見上げてにぱぁっと笑った。
今の一幕が一体何であったのかさっぱりわからないジュリアス、ごきげんな幼児を呆然と見下ろすばかりだ。
そのとき幼児のアタマのなかでは、「髪が長いと足に毛がない」という法則が成立していたのだった。もしもそれを知ったら、ジュリアスが髪の長さとすね毛には相関関係がないことを懇切丁寧に言って聞かせただろうが、言葉にしてくれないことには思考は見えない。

その翌日、宮殿のあちこちでクラヴィスによるスカートめくりならぬローブめくり事件が発生して、ルヴァやリュミエール、女官数名が犠牲者となった。
その噂を聞いて年少組は青くなった。この事件は自分たちの会話のせいだろうか。もしかして、好奇心旺盛な幼児が、他の人達はどうなんだろうと確認して回っている!?
恐る恐る噴水でのできごとを首座に申し出た三人は、「クラヴィスにあまり妙な話を吹き込まぬように」と注意を受けた。
厳格なる首座様が犠牲者第一号だったことは、誰も知らない。その時ジュリアスがどれほど慌てたかも、無論のこと誰にも内緒である。


パパは大変

幼児と暮らしていると、思わぬアクシデントに遭遇することがある。その余波を受けたのが、ジュリアスの衣装管理担当者だった。
最近、主の下着着用率が100パーセントなのだ。なぜそんなことになったのかわからないし、誰に尋ねるわけにもいかない。別に四六時中ジュリアス様のパンツについて考えているわけでもないが、時折り「ジュリアス様に何が起こったのだろうか」と、ふと考えこむことがある。いくら考えても理由なんかわかるはずもないし、知ったところで何の役にも立たないと、そのことは忘れようと務めていた。主がパンツを履く回数が増えたからって、一介の使用人には関係のないことだ。自分の担当はジュリアス様の衣装全般を管理すること、それだけだ。
執務用の正装の管理は言うに及ばず、私邸で着る服も彼の管理下にある。もちろん下着類もそうだ。ランドリーのバスケットに入れられた品に傷みはないか気を配り、数量に不足が出そうであれば発注し、衣類の素材の特性を鑑みつつ完璧に洗いあげ、アイロンの必要なものには折り目正しく美しくアイロンをかけ、きれいに畳んで、あるいはハンガーに吊るして、所定の場所に収納すること、それが彼の仕事であり、洗濯物の量の増減など衣装担当者の管轄外のことだ。

衣装担当者を悩ませることになった、ジュリアスに毎日の下着着用を義務づけることとなったアクシデント、それは10日ほど前の夜起こった。クラヴィスにいきなり夜着の裾をまくられ、スネをナデナデされた記憶も生々しいジュリアスは、この件で思ったのだ。

下着は常に着用していたほうが安全かもしれぬ。

この場合の下着というのは下半身用のものである。日頃ローブ系衣服着用のジュリアスは、下に着ているものも長い薄物だ。そして乗馬服でも着ない限りトランクスやブリーフといった下半身専用品は身につけないのが常態だった。これまでの生活では、それで何も問題はなかった。だが、幼児の混沌とした思考によって導きだされた何かとんでもない考えに従ってクラヴィスがいきなり妙な行動をする可能性がある今、その無防備さはどことなく危険なような気がした。そんなわけで、あの夜以来常に下半身の防備も怠らない。親業というのは思わぬところに大変さがひそんでいるものなのである。
そんなある晩のこと。ジュリアスはクラヴィスを光の館に連れ帰っていた。3日とか一週間などという短期間限定ならともかく、長期にわたって毎晩闇の館にクラヴィスを寝かしつけに行くのは、忙しい身のジュリアスには負担が大きい。だから半々くらいの割合で自邸に連れてくるようになっていた。

夕飯を食べさせ風呂に入れるともうクラヴィスの就寝時間が近くなっている。ジュリアスは、体を拭いてやったあとパジャマを着せようとしていた。何で光の守護聖様がそんなことをしていらっしゃるのか、と問うてはいけない。館の者たちだって手をこまねいていたわけではなく、「クラヴィス様の入浴やお着替えは私共にお任せ下さい」と願ったのだが、ジュリアス自身が「自分がする」と宣うのだ。かわいい「我が子」と濃密に触れ合える就寝前の時間は、多忙なジュリアスにとっての癒しタイムなのだった。などという事情はさておき。
この晩のクラヴィスは、なぜだかパジャマを着せようとしてくれているジュリアスの手をすり抜けて、部屋の中を一目散に駆けていく。クラヴィスの前にしゃがみ込んでいたジュリアスは唖然とし、何のつもりだと呟いて立ち上がった。裸で走って逃げていくのを捕まえようと追いかけると、よけいに喜んでうれしそうに笑い声を上げて、さらに逃げていく。何がそんなに楽しいのかジュリアスにはさっぱり理解できないが、クラヴィスは鬼ごっこでもしているつもりだったのかもしれない。まあ、相手は「鬼の首座」と異名を取る男でもあるし、鬼に追いかけられているというのはあながち間違いでもなかった。ジュリアス、強制的に鬼にされ、25歳にして鬼ごっこ初体験。だが幼児とのリーチの違いは明らかだ。鬼ごっこはそう長い時間は続かなかった。クラヴィスはあっという間につかまって、
「そこへ直れ」
と言われて、息を弾ませながら裸んぼさんで立ちん坊。わけのわからない行動に出られて、甘々パパから厳しい首座モードに切り替わっていたジュリアスは、クラヴィスの正面で仁王立ちしている。はるか頭上から見下ろされた幼児は、「なぜ逃げるのだ」とか「せっかく湯を使ったのに、また汗をかくではないか」などと叱られながら、じっとその顔を眺めていたが、急に下を向いた。これは単に、ずっと見上げていて首が疲れたために下を向いただけで、一向に恐れ入っていないのは大人のクラヴィスと同じである。せいぜい、「ジュリアス、なんかおこってるなー。いっぱいおはなしするなー」くらいのことだ。だってジュリアスに追いかけられるのは楽しかったし。何やらいろいろと言い続けるジュリアスは、首座モードのせいか用語の選択が幼児向きではなくてクラヴィスにはよくわからなかったりしたし。そうした場合、黙ってジュリアスの話が終わるまで待っている以外何ができようか。しかし下を向いたそのとき、クラヴィスは自分の体に不審なものを発見した。

おなかのど真ん中に、穴。
それってつまりおヘソなのだが。

自分の体をそんなふうにしげしげと眺めたことがなかったので、今初めておヘソの存在をはっきり認識した幼児は、とてもとても不思議に思ってそのあたりをいじり回している。もともとジュリアスに叱られたって全然こたえていない幼児だが、今やそっちに全意識が集中してしまって、ジュリアス様のありがたいお話なんか全然聞こえていない。
「人の話を聞いているのか!」
下を向いてしまったクラヴィスは、もしかして泣いてでもいるのだろうかと少し心配になりつつも、ジュリアスは厳しく言った。大事な話をきちんと聞かないなど、放置してはおけない。ところが、大きな声を出されてもう一度ジュリアスを見上げた幼児は、叱られてしょんぼり涙を流しているのではなかった。しおらしい様子はこれっぽっちもなく、それどころか瞳が好奇心にきらめいている。
「何をしているのだ、いったい」
ため息をついたジュリアスに対して次にクラヴィスがしたのは、「ジュリアスのおなかにも、穴があるのかな?」とパパ代理が着ている長衣をまくっておヘソの存在を確かめることだった。だってお風呂に入れてもらうのだって、着衣のまま袖まくりをしたジュリアスに一方的に洗われている状態なので、ジュリアスの体なんか見たことがないのだ。

前にベッドで裾をまくられた時の比ではなく盛大にぴらり〜んとまくり上げられて、それだけでは済まずに服の中に入り込まれて、ジュリアスは息を呑む。一瞬後、やんごとなき首座様は思わず叫び声を上げて、服の下から幼児を引きずり出していた。
「何のつもりだ!!」
とジュリアスに問い詰められるも、理由を説明できないクラヴィス。しかも、立っているジュリアスの問題の部分は幼児の目線からはよく見えない位置にある上、すぐに引きずり出されて結局は確認できなかったために、クラヴィスはぷぅっとむくれた顔をしていた。

おなか見たかっただけなのに、なんでジュリアスさわいでるんだろ?

とんでもない暴挙に出た挙句、理由も言わず(っていうか、言えず)、ぶうたれ顔をしているクラヴィスをジュリアスが叱らないはずがなく、当然ながらおチビはさらなる小言の嵐に見舞われることになったのだった。
ひとしきり言い終えてクラヴィスを寝かしつけてから、ジュリアスは思った。
毎日の下着着用を自らに義務づけることにしたのはまさに英断だった、と。


赤い鳥小鳥

クラヴィスと共に食事をしていて、最近になってジュリアスが気がついたことがひとつある。クラヴィスは蜂蜜が好きだ。

大人であったクラヴィスと晩餐会や茶会などで同席した際は、食が細いという印象だった。子どもの頃からあまり食の進む方ではなかったように記憶しているが、なぜかこのクラヴィスは小さい体でよく食べる。元気で食欲旺盛なのは良いのだが、食べ過ぎては腹痛を起こすということがしばしばあって、限度を超えぬようこちらで気をつけてやるようになった。幼い子というのは意外なところで手のかかるものだ。
クラヴィスがあまり量を食べなかったのは、もしかしたら自分の体の状態を客観視できるようになってからのことなのかもしれぬ、などということも思うようになった。
考えてみれば食が細いクラヴィスであってもあの体に育ったのだ。本人が必要量をわきまえていたということなのであろうな。

朝食の最中である今も、蜂蜜をパンにつけてもらったり、ヨーグルトにかけてもらったり、果てはスプーンに直接入れてもらってなめていたりしている。しかも何回も。
蜂蜜は体に悪いものではないし……とジュリアスは大目に見ていたが、何さじもなめるのはさすがに途中で止めるようになった。
こうしてみるとクラヴィスの蜂蜜好きは度を越しているような気もする。前はそこまで蜂蜜にこだわっていなかったと思うが、いつからだったろう? 甘くておいしいのだろうとは思うが――。
ニコニコ顔で、蜂蜜をたっぷりつけてもらったトーストをほおばって口の周りや手をぺたぺたにしているクラヴィス。
ああ、あれでは後で拭いてやらねばならぬな。いや洗ったほうが早いかなどと思いながら、トーストをぱくついている幼児を眺めていた。


クラヴィスが蜂蜜にこだわりを見せるようになったのは、しばらく前にリュミエールがクラヴィス当番だった日からのことだった。
リュミエールはハープを弾いて聞かせたり、童謡を歌ってやったりしていたのだが、その中のとある歌がクラヴィスの関心を引いた。それは『赤い鳥小鳥』という歌で、赤い小鳥は赤い実を食べて赤くなった、青い小鳥は青い実を食べて青くなった、という内容だ。
赤いものを食べたら赤くなる、青いものを食べたら青くなる。この論理は、幼児には非常にわかりやすかった。
そうか! チュピはあおい実たべてるんだ!
とものすごく納得したのだ。

じゃあ、きんいろのもの食べたら、ぼくのかみのけもジュリアスみたいにぴかぴかになるかな。

クラヴィスはジュリアスにきつく叱られようが何だろうが、「こわく見えたけど、ジュリアスはほんとはやさしい」という最初の刷り込みが強力で、パパ代理の何もかも全部、どこもかしこも大好きだった。だが何を隠そう、中でも金髪が特にお気に入りなのだ。金髪好きはクラヴィスの遺伝子にがっちりと組み込まれているのかと疑いたくなるほど、いっそ清々しいほどにブレがない。
マルセルともオリヴィエとも違う、女王陛下とも違う、まばゆい黄金。口には出さないが、自分もあんなだったらいいのにと憧れていた。なのに、自分は黒髪。そんなクラヴィスにとって、その歌詞はまたとない情報だった。幼児が「よーし、金色のものいっぱい食べるぞ!」と張り切ったのも仕方のない成り行きと言えよう。
だが、問題は「金色の食べ物」。赤い実や青い実はデザートとして食卓にも出てくるが、金色の実なんてクラヴィスは知らない。あれこれと未熟な頭をひねってようやくたどり着いたのが、朝食のときに添えられる蜂蜜である。あれはジュリアスの髪の色とよく似てる!
それ以来、クラヴィスはせっせと蜂蜜を食べるようになった。

そんなことが続いていたある晩のこと、執事が「頂き物の貴腐ワインがございますが、食後にお持ちしましょうか?」とジュリアスにお伺いを立ててきた。ワインは辛口が好きだが、たまに飲む貴腐ワインも悪くない。
「そうだな、では頼む」
と出すように命じた。

晩餐は、ジュリアスとクラヴィス二人が大きなテーブルの一角に並んで食べる。朝も一緒に食べてはいるが、何かと忙しいのでクラヴィスに食べさせるのは人任せだ。しかし晩は違う。幼児は、朝も晩も変わらず子ども用の握りの太いスプーンを握りしめてぶん回しつつ、食事半分遊び半分。そんな相手に再々食事のマナーを説いたり、口の回りをナプキンでぬぐってやったり、あれこれ世話を焼きながら辛抱強く付き合うジュリアスというのはけっこうな見物だ。大変は大変だが、可愛さが勝ってクラヴィスの面倒を見ながら一緒にする食事が毎晩の習慣となっている。幼児に食べさせるのは手間も時間もかかるので、使用人の多くいる館では丸投げしようかと思ったって不思議はない。子どもと接したことのない独身男なら普通は適当なところで放り出しそうなものだが、ジュリアスは決してギブアップしなかった。この時間もまた、ジュリアスにとっての癒しタイムなのである。
そして、執事がワインについて主の意向を尋ねたこの日は、食事の終わりにジュリアスの前のグラスに貴腐ワインが注がれた。それはまさに黄金色に輝いていた。
ジュリアスの髪のように。
何日も蜂蜜を食べているけど、クラヴィスの髪は一向に金色にならない。思えばジュリアスもそれほど蜂蜜は食べていないということに気がついて、蜂蜜じゃだめなのかなとクラヴィスは少々落胆していたのだが、貴腐ワインを見て頭の中でピコーンと何かが光った。優美なグラスに注がれたとろりと濃い、蜜色の液体。
それはまるで魔法の薬のように幼児の瞳に映った。
これこそがジュリアスの髪の金色の素に違いない! これを飲めば自分もきっと!
でも幼児にはワインなんか注いでくれないので、テーブルに身を乗り出してそのワイングラスをつかんだ。
「クラヴィス! 何をしている!」
というジュリアスのあわてた声を聞きながら、両手で持ったワイングラスに口をつけて、こくり。辛口の白ワインなどであればすぐに吐き出したかもしれなかった。だが何しろ貴腐ワインだ。本当に甘い。幸か不幸か幼児の口にも合ってしまった。

あまくておいしい!

と、吐き出すこともなくクラヴィスがこくこくこくっと半分近くを飲んだところで、ジュリアスにグラスを取り上げられた。が、すでに胃の中に入ってしまったワインは回収できない。
2歳児にアルコールを飲まれて青くなっているジュリアスの横では、椅子の上に立ち上がった幼児が能天気ににへら〜っと笑っていた。そのときのクラヴィスの頭の中をかけめぐっていたのは、「これできんいろ〜♪かみのけきんいろ〜ヽ(^o^)丿」といったような、歓喜の叫びだったに違いない。
幼児は早くもアルコールが回りつつあるのか、狭い椅子の上で今にも踊り出しそうだ。落ちてはいけないと支えようとするジュリアスの金色の頭を、えらくご機嫌な様子でぽふぽふと触って、ケラケラと笑う。まるで笑い上戸の酔っぱらいオヤジ。
「酒など飲んで……大丈夫、か……?」
大丈夫じゃなさそうなのは一目瞭然だが思わずそう問いかけたジュリアスに、もう一度にぱっと笑いかけると、両手を出してだっこしてのサイン、あわてて抱き取ると首に小さな手を回してしっかり抱きついて顔にほっぺたをすりすりして、次の瞬間には電池が切れたようにくったりして、寝ていた。

「ジュリアス様……」
傍に控える給仕の男と目が合った。
「クラヴィス様は、その……大丈夫でいらっしゃいますか?」
「酔って寝入ったのだろうと思うのだが……大丈夫かどうかは私にもわかりかねる」
苦しがったり吐いたりしないか、今宵は目が離せぬな、とジュリアスは深いため息をついた。
まったく、何を思って人のワインを取り上げて飲んでしまったものか。

だが言葉を発しないクラヴィスから真相を聞くことはできまい。ローブまくりやローブの中入り込み事件同様に、この行為の理由もまた永遠の謎となることだろう。
くたくたぬいぐるみのようにくったりとジュリアスに抱かれたクラヴィスは、ジュリアスとおそろいのぴかぴか金色頭になった夢でも見ているのか、くふんと笑った。


嬢ちゃん

ルヴァが外界の縁日に遊びに行きましょうと年少組を誘い、ゼフェルがクラヴィスも連れていこうと言い出し、そうなると当然の如くジュリアスもやってくることになった。
外界へクラヴィスだけを行かせるだと? そのようなことができようか。
というのがジュリアスの言い分だ。誰もクラヴィスを一人で遊びに行かせるとは言っていないのに、この子どもの監督責任は自分にあるとばかりに自分も同行することに決めてしまった。ルヴァが苦笑いで「私がきちんと見ていますよー」と言おうが年少組が「目を離さないようにしますから」と力説しようが、聞く耳など持たない。過保護パパはしょーがねーな、とゼフェルはひそかに肩をすくめた。

縁日の屋台には幼子の目を引くものがいっぱいだ。
最初はゼフェルに手をつないでもらっていたクラヴィスだったが、すぐに駆け出そうとするので結局ジュリアスがずっと抱いている。うっかり手を放した隙に迷子にでもなられては、と心配したあまり、
「でーじょーぶだよ、ぜってークラヴィスの手は放さねーってば」
というゼフェルから取り上げるようにして抱いてしまったのである。過保護ここに極まれりとばかりに仲間たちからいささか白い目で見られても、蛙の面に水。首座はまったく動じない。周囲の思惑にいちいち顔色を変えているようでは、首座なんか務まらないのだ。

クラヴィスはあっち指差しこっち指差し、ときどきゼフェルの通訳も交えて自分のほしいものを首尾よくゲットしていた。ちょっとしたおもちゃやら、駄菓子やら、自分の手では持ちきれずに、年少組が荷物持ちをしていたりする。綿菓子のコーナーでは、ふわふわの霞のようなものを棒に絡めとっていく様が不思議でたまらないようで、ひとしきり製作過程を眺めていた。クラヴィスよりは大きな子どもが、できあがった綿菓子を口にしているのを見て初めて食べられるものだと知って、自分もほしいとねだって買ってもらって、ジュリアスに抱かれたまま自分の顔ほどもある大きな綿菓子を食べようとしていたクラヴィスだったが、大きすぎて扱いにくい。ジュリアスの顔にもついてしまうので、ルヴァが綿菓子を持ち、適当にちぎってクラヴィスに渡していた。
ひとくち食べてみたクラヴィスの顔がぱぁっと笑顔になり、次にルヴァから受け取った菓子も口に運ぶかと思いきや。それはジュリアスの口元に突きつけられた。これはどういう意味か、ジュリアスにもわかる。「食べろ」と言っているのだ。綿菓子と言えば砂糖そのものである。甘いもの好きとは言えないジュリアスは、品の良いデザートであればまだしも、そんなものは食べたくなかった。だが愛し子の笑顔に負けた。テレパシーなどなくてもわかる。「これ、おいしいよ。おいしいからジュリアスも食べてみて。ね? ね?」という心の声がびんびん響いてくるのである。仕方なく笑顔を作って「私にくれるのか」と言いながら口に入れてみたジュリアスは、「甘いな」と呟いて微妙な顔をした。幼児があふれんばかりの好意で自分に分けてくれた綿菓子を、いらぬと切り捨てることもできず、口に入れて嫌な顔もできず、かと言ってこの砂糖菓子はジュリアスの口には甘すぎて、さしもの首座の鉄面皮にもヒビが入ったようだ。陰ではゼフェルがいい気味だとばかりに「けけっ」と笑っていた。
オレのコト信用ーしねーでクラヴィス取り上げっから、そーゆー目にあうんだよ!
「ゼーにーちゃん」
クラヴィスに呼ばれて、「おう」と答えたゼフェルは、自分も綿菓子の洗礼を受けることとなって、ジュリアス同様微妙な顔をするはめになったのは、そのわずか数秒後のことだった。

縁日にはさまざまな屋台があるが、少し広いスペースを取って射的をやっているところに来て、クラヴィスの目が輝いた。しきりにそちらを指さすので、ゼフェルが、
「あれ、やりたいのか?」
と尋ねた。
うんうんと頷くクラヴィスである。
しかし、おもちゃの銃とはいえ2歳児が撃つのは少々無理がある。大人がやってもかまわないということだったので、ジュリアスが銃を取ることになった。
「この子、おにーちゃんの子? かわいいねえ」
と射的場の男に目を細めて言われ、ジュリアスは曖昧に頷いた。本当は同じ年の幼なじみだが今は幼児になっている、なんていう説明をするのも面倒だし、第一そんな説明は誰も信じないだろう。
「ママはどうしたの? 今日はパパがお守りなのかい?」
男に声をかけられたクラヴィスは、目を瞬いた。ジュリアスが代わって答える。
「すまぬ、この子は口をきかぬのだ」
「へー、そうなのかい。この子のママは? おにーちゃんとはあんまり似てねーけど、お母さん似なのかい? おにーちゃんの奥さんだったら、さぞや美人さんなんだろうなあ。この子も美人に育つこと間違いなしだね!」
さて困った。
今のクラヴィスは我が子同然にかわいいが、ジュリアスの子どもではない。むろんジュリアスには「奥さん」もいない。困った挙句、ジュリアスはぼそりと口にした。
「……亡くなった」
クラヴィスの母は亡き人であるからして、それは事実だ。
それを聞いて、男は実に気の毒そうな顔になった。
「あっちゃー、わりーこと言っちまったかな。あんたみてーな若いにーちゃんが一人で子育てとは……てーへんだな」
気のいい男のようで、いたく同情したふうである。
「特別におまけして、弾の数多くしとくよ。頑張ってかわいい嬢ちゃんに何か当ててやんなよ」
銃にこめる弾をそっと増やして、ジュリアスに渡してくれた。
「ありがとう」
とジュリアスは微笑んで、ルヴァにクラヴィスを渡すと銃を受け取った。ルヴァは先ほどから必死で笑いをこらえながら、ジュリアスと男とのやり取りを見ていた。
「女の子に間違えられちゃいましたねー、クラヴィス」
とジュリアスから託された幼児に囁きかける。ジュリアスは聞き流していたようだが、男はクラヴィスのことを嬢ちゃんと呼んでいた。

ゼフェルの通訳によれば、クラヴィスがほしがっているのは上の方に鎮座している、透明なプラスチックのボックスに入った白いクマのぬいぐるみらしかった。なかなかの大物狙いだ。そういうものは目を引くための賞品であり、実際のところ射的の弾で撃ち落とすのはほぼ不可能といっていい。
ゼフェルに耳打ちされた他の面子は、
「あのぬいぐるみ? ちょっと無理じゃないの?」
「だよな。俺もそんな気がする」
「そうですね〜」
と悲観的なひそひそ話を交わして、固唾を飲んで成り行きを見ていた。ところが何と! ジュリアスが手慣れた様子でぬいぐるみを狙って続けざまに撃ちこむと、絶対に動かないだろうと思われたぬいぐるみのボックスがゆらゆら揺れ始めて、ついにはぽとりと落ちたのである。射的場の男も驚いたようだった。
手に汗握って見つめていた守護聖たちはホッと肩の力を抜いた。
「なんつーか……気合の勝利だな」
「クラヴィスのことをそれはそれは可愛がっていますからね〜」
「ほんとに撃ち落としちゃったね。びっくりだよ」
「弾を全部同じ所に命中させてたけど、ジュリアス様って本物の銃も扱えるのかな」
各々勝手な感想を言い合っている。クラヴィスを溺愛しているのはジュリアスだけではない。もしかしたら守護聖の面々、クラヴィスがほしがっているぬいぐるみを取ってやりたいあまりに、本人たち無意識のうちに弾と同時にかる〜くサクリアをぶつけてたりしたかもしれないケド。真相はどうだっていいのだ。
射的場の男から、
「嬢ちゃん、よかったな。パパがこれを取ってくれたよ」
とぬいぐるみを渡されたクラヴィスが最高の笑顔になったから。
「おにーちゃん、子育て頑張ってな!」
大声で男に励まされて苦笑を浮かべながら、ジュリアスはその場を後にした。

その日クラヴィスは白いぬいぐるみを決して手から放そうとしなかった。夜も大事そうに抱きかかえて眠りに就いた。そんな姿を見たのは、寝かしつけていたジュリアスひとり。優しげな寝顔は女児のようだなとふと思い、そう言えばあの射的場の男がクラヴィスのことを「嬢ちゃん」と呼んでいたと今更のように思い当たった。ジュリアスはクラヴィスが男だと知っているから、これまで女の子のようだと思ったことはなかったのだが、なるほど大人しくしていれば愛らしい顔は女の子とも見える。

着せているものは男児用の衣服だ。駆け回っている姿も間違いなく男の子なのだが、私におとなしく抱かれていたクラヴィスは女の子に見えたのだろうか。

性別など関係なく、可愛いものは可愛い。幼いクラヴィスであるというだけで、無条件に可愛い。
なんとも言えない愛しさがこみ上げて、ジュリアスは寝入った幼子の額にそっとキスして、ベッドサイドの明かりを落とした。





■BLUE ROSE■