歴史考証課 |
目次 3発撃ったらナイフアタック?ーー初期の紅軍弾薬事情 冷や飯食えな〜い!ーー人参軍厨房部のルーツを探る 猶、人参軍対外情報員吉林同志より友好チーム「THW」に良く似た傭兵軍隊についての報告が届いている。その詳細はこうだ。
参考文献:
そこで当ページでは我々が手本とする創設期の中国軍についてや、友好チームなどと妙に共通性のある実際の軍隊の話題などを取り扱う。
ちょっとした歴史勉強の気分、また一風変わったゲームの参考になれば幸いである。
・対外戦のススメーー紅軍対日本軍激突!「平型関の戦い」
・3発撃ったらナイフアタック?初期の紅軍弾薬事情
・冷や飯食えな〜い!人参軍厨房部のルーツを探る
・これが神髄? 必殺の傭兵部隊・・・カタンガ憲兵隊
対外戦のススメーー紅軍対日本軍激突!「平型関の戦い」
現在では1J戦が一般的ゲームの主流となり、また手軽で性能の良い電動ガンの普及などから、改造マニアチームでなければまあ大抵は似たり寄ったりのパワーによるゲームが全国各地で行われている。
気心の知れたいつもの常連で和気藹々と行うゲームは安心して楽しめるのでたいていどこのチームも常連ゲーマーで寄り集まって定例会を開いていると思うが、時には遠征してレギュの合う他チームとの対外戦というのも、「相手の出方の分からない展開」というものが楽しめて良い。例えば膠着してばら撒き合うばかりのゲーマーが、ハンドガン主体でとにかく迂回・機動戦を主体とするチームと対戦したら面食らう事だろう(でもきっと新鮮に感じる筈である)。
全国規模の大会における上位入賞や、そうでなくても今以上に上手くなりたいと思うなら、いろんなパターンの相手を知る事は非常に大事である。そんな事を感じさせる一戦が、紅軍(当時は第二次国共合作の為八路軍)が日本軍をアンブッシュした1937年9月25日の「平型関の戦い」である。
林彪揮下の八路軍第115師団は平型関周辺に待ち伏せ、油断し切った日本軍(第5師団第21旅団)を奇襲した。この時破壊された車が道路を塞いだ為に日本軍は展開する事も出来ず、紅軍得意の包囲殲滅戦術をトラック下に篭る事で迎え撃った。
これまで国府軍(蒋介石の国民党軍)としか戦火を交えた事のなかった115師の兵士達は、日本軍も彼等と同様にある程度痛めつけたら降伏してくるものとばかり思っていた。しかし「降伏したら殺さない」と幾ら中国語で言われても日本兵には何を言ってるのかサッパリ?。また遮蔽物として使っていたトラックを焼き払う事もしなかった為、戦闘は終始紅軍有利であったにも関わらず日本軍の頑強な抵抗は包囲下の部隊が全滅するまで続いたのであった。
結果的には3千余人を殲滅する大勝利であったのだが捕虜は0、鹵獲品も想像以下の少なさに紅軍幹部ですら驚愕したという。
毛沢東が井岡山に篭りそこに朱徳が合流して初期の紅軍(中国労農紅軍)が組織された。後に井岡山を出て瑞金ソビエトを樹立し、5度に渡る国府軍との対決が行われる事となったが、それまでの紅軍の武器・弾薬事情は極めて劣悪、基本戦術は「智将は敵に食む」という訳で国府軍から奪って補充する事であった。
毛沢東も著書「中国革命戦争の戦略問題」の中で「
我々の基本方針は帝国主義と国内の敵の軍事工業に依存する事であり、ロンドンや漢陽の兵器工場に対しては、我々は権利を持っており、しかも敵の輸送隊が送り届けてくれる。これは冗談ではなくて真理である」と言っている程だ。
とは言っても常に必要量が補充された訳ではないので、瑞金ソビエト時代などには使用済薬莢を再生しての弾薬製造を行っていた。勿論質的には通常弾と同等という訳にはいかないので機関銃には使えず、小銃に使用した場合でも射程が著しく落ちたのでなるべく後回しに使っていたようだ。
それでもとにかく絶対量が少ないので、当時の紅軍内部では「3発撃ったら突撃」という不文律が存在したという。
当時の「ヤケに長い小銃」に着剣したものやら青竜刀やらを振り回しながら敵陣目指して突っ込んでいく訳だが、対する国府軍も戦意旺盛な訳ではなかったのでこれで散々蹴散らされた。
世のゲーマー諸君、「電動ガンに多弾数MAG」に慣れた今、「3発だけ持って突撃戦」とか面白そうじゃないか?
蒋介石が感心した日本軍の特徴の一つに、「携帯した弁当で食事が出来る事」があったという。つまり煮炊き出来る時にあらかじめ用意しておき、必要な時に調理の時間をとる事なくサッと食事が取れるので行軍時に大いに有利だというのである。
という事は・・・対する彼の軍隊はどうだったのか。
中国軍の場合食事時間は全てに優先し、後方・前線の別なく、饅頭蒸したり炒め物作ったりして炊き立て作り立ての食事を摂っていたそうである。なんでも中国人は「お冷やご飯」をとにかく嫌うとかで日本軍の様に弁当などとははとんでもない話、お陰でしばしば行軍にも支障をきたしたという。
一例を挙げると、太平洋戦争中米軍は中国国民党軍の2個師団(38師団・22師団)をインド国内に送りアメリカ式の装備・訓練にて完全なアメリカ式部隊として再編成しこれをビルマ・雲南方面の日本軍に対する戦力としようとした。そのアメリカナイズされた筈の38師団ですら休憩というと寝転がるやら、食事の時間はコックが鍋担いでやって来るととたんに前進が停止して大休止状態になるやらという様相であったという。
し・か・し・・・確かに実際の軍隊では大問題かも知れないが、ことサバゲにおいてはフィールドで温かい食事が摂れたらどんなに良い事か。特に冬場それを痛感していた紅中兵主席はこの話を聞いて「実際の中国軍でもやっていた事が、より装備的に優遇されている現代の我々が出来ない筈がない」とフィールドキッチン・人参軍厨房部を発案、これを実行に移して日々美味いメシを提供せんと努力しているのである。
中国軍のしょーもない一面が人参軍の福利厚生に一役買っていた、というお話でした。
「これが神髄? 必殺の傭兵部隊・・・カタンガ憲兵隊」
1960年コンゴが独立すると南部の鉱山地域カタンガ州も独立を宣言した。ところが、訓練を受けた兵隊がいないものだから、世界各地から傭兵をかき集めて「カタンガ憲兵隊(Katanga
Genndarmes)」という軍隊を編成した。集まった傭兵はおよそ500人。コンゴに展開した国連軍はコンゴ中央政府の側についてしまったので(PKFが中立を放棄した)コンゴ国連軍約16000名と僅か500人のあまりにも無謀な戦いが始まってしまったのである。
が、傭兵部隊は強かった。迷彩服にブッシュハット、SMG、水筒しか装備の無いカタンガ憲兵隊は、圧倒的に数で勝り分列行進や「軍隊らしさ」では遥かに上の「本格的軍隊」である国連軍を、機動力と柔軟な作戦指揮(階級は関係なく、能力ある者が指揮をする)で散々に打ち破った。インド軍は壊走状態に陥るし、アイルランド軍は包囲されて降伏してしまうし、頼みの綱のグルカ兵「白兵突撃」部隊すらカタンガ憲兵隊を撃滅出来なかった。国連事務総長ハマーショルドは頭を抱え、国連軍の武力では無理と判断。カタンガ側と交渉をせざるを得なくなったのである。
(ちなみにこの直後、交渉に行く途中でハマーショルドは『事故死』する。)
これってまるで我らと軍事同盟状態にあった傭兵集団「THW」がばっちり軍装したチームをあっと言う間に撃滅」したのとそっくり!!時は流れ場所は違えども「傭兵部隊」は流石に強いのか!!しかもカタンガ憲兵隊の傭兵は昼は国連軍をキリキリ舞いさせ、夜は現地の高級ホテルで優雅に宿泊。まさに「某雑誌主催サバゲイベント」のノリだ!
おそるべし!傭兵!!格好だけではダメのダメダメなのだ!
「孫子 男子戦わずして勝つべし」プレジデント社
「参謀」 児島襄 文藝春秋
「僕は八路軍の少年兵だった」
山口盈文 草思社
「アフリカ傭兵作戦」朝日ソノラマ文庫