理外の理
パンの焼ける香ばしい…というよりは、多少焦げ臭さを含んだ匂いがキッチンに漂っている。
扉を開けたトースターの前で皿を持ち、そこに乗せたものに視線を落としつつ佇んでいた成歩堂は、暫くの後に1つ大きな溜息をついた。
丸く白い皿の上には、これまた丸く黒い物体が1つ。
どうやらこの焦げ臭さの原因はその黒いものからのようだった。
「…まるほどう。珍しいもん持ってるじゃねぇか」
ダイニングのテーブルに着いた成歩堂に、早速ゴドーが近付いてきた。
皿に乗せられた物体を指すゴドーに、成歩堂はやや気まずそうに隣を見上げた。
「珍しい?」
「オレも初めて見たぜ。それが噂のまっくろくろ○け」
「ただの焦げたあんぱんです」
ゴドーのからかいにピシリと言い置いて、成歩堂は再度そのあんぱんに目をやった。
休日の昼近く。
連休明けの土曜日という今日は特にこれといった予定もなく、成歩堂は遅めの朝食をとろうとしているところだ。
隣に座るゴドーは先にみぬきと済ませていて、その愛娘はクラスメートの家にと遊びに出掛けてしまった。
「みぬきちゃん、元気だなぁ〜…羨ましい」
「あんたはダルそうだな」
「…誰のせいです」
じとっと睨んできたコネコの視線を受け流して、ゴドーは若干くたびれた感じのする成歩堂のトンガリ頭をくしゃりと混ぜた。
「今日はゆっくり過ごそうぜ。…何か欲しいものあるかい?」
そう言って柔らかく微笑むゴドーの表情に、成歩堂は唇を尖らせながら「特にないです」と呟いた。目元がほんのり赤いのは気のせいではないだろう。
成歩堂の隣に腰掛けると、ゴドーは手の中のコーヒーカップで「ところで」とあんぱんを指した。
「そいつを食うのかい、コネコちゃん」
「う…食べますよ。もったいないですもん」
ミルク多目のカフェオレと、皿に乗せられた黒いあんぱん。それが本日の成歩堂の朝食らしい。そこまで空腹と言うわけではないが、何も口にしないというのも身体に良くない。そこで見つけたのが、数日前に買っていたこのあんぱん。
「さすがにちょっとは火を通した方がいいかなーって…チンしたんですけど」
「…アンタはもう少し、トースターの加減を覚えた方がいいぜ」
「ご、ごもっとも」
下側は問題無さそうだが、表面はすっかり黒々と光っている。レンジの方が良かったか、などと後悔しながら、成歩堂はあんぱんをちぎって口に運んだ。
1口噛むごとに、あんぱんらしからぬザクザクとした歯ごたえがある。そして広がる餡子の甘みと表面の苦味。
成歩堂はまさしく苦虫を噛み潰したような顔で、黙々とあんぱんを食していった。
そんな成歩堂を横でじっと見ていたゴドーは、おもむろにあんぱんに手を伸ばすと片手で器用にちぎって食べた。
「あ」
その手を追って、成歩堂の視線がゴドーへと向けられる。ザリザリと咀嚼して飲み込んだゴドーは、カップを1口呷ってから言った。
「苦ぇ」
それがコーヒーに対しての感想でないことは明らかだ。
「別にゴドーさんまで食べなくってもいいですよ」
苦笑した成歩堂の手には、小さくなってきた残りのあんぱんの塊。ゴドーは成歩堂の手首を掴んで引き寄せると、今度はそのまま黒いあんぱんに齧りついた。
「もー」
「…多少は違う気がするぜ」
もぐもぐと口を動かしながらのゴドーの言葉に、成歩堂は「?」と首を傾げた。ゴドーの齧った上から成歩堂が口をつけると、またも隣りから「違うだろ?」と念を押された。
「味なんて変わりませんよ。苦いもんは苦いし」
「そうか?間接キスぱんだぜ?」
残り1口を押し込もうと口を開いたまま、成歩堂は「は?」とゴドーを見やった。何か可笑しな単語が聞こえた気がする。
「間接キスぱん」
再度そう言葉にしたゴドーは、相変わらず成歩堂をじっと見つめている。
そういえば、先ほどゴドーが齧った部分は、それより先に成歩堂が口をつけていた場所だった。そして、その後でまたゴドーの食べたあとを成歩堂が齧る。
確かに、間接キスであることには間違いはないけれど。
「………」
最後の1口を放り込んで、成歩堂は行儀良くもぐもぐと食べ終えた。その間も、ゴドーはじっと何かを待つように成歩堂を見つめている。
ゆっくりとカフェオレを飲みながら、成歩堂はこの連休のことを思った。
ゴドーの勤める星影事務所も、みぬきの小学校と同様にカレンダー通りの休日だ。人が多いのは覚悟の上で、この3日間はみぬきのためにと、様々な場所へ足を運んだ。そして1日仕事をしてからの今日、土曜日。
昨晩は互いに求め合ってベッドインとなったけれど、それだって実は久々のことだったのだ(成歩堂の疲労の度合いもこの辺にある)。
部屋にはゴドーと成歩堂の2人きり。テレビさえついていない静かな空間で、開け放ったベランダ側の窓からは、柔らかな風がふわりとカーテンを揺らしている。
(そうか、ゴドーさん…)
手に持っていたカップをテーブルに置くと、成歩堂は思わず噴出しそうになった。
(ぼくに構って欲しいんだ)
突飛な考え、というほどでもない。こんな風にゴドーの方から“構ってアピール”をされることは珍しいことではないのだから。しかし、いつものことながら妙に分かりづらい。
「ゴドーさん」
「なんだい、コネコちゃん」
成歩堂が名前を呼べば、ゴドーは即座に言葉を返した。その表情が嬉々として見えるのは、成歩堂の考えが思い違いではないことの証だろうか。
「今日は何をしましょうか」
「何かしたいことはないのかい」
「ん〜…観てない映画のDVDがあったような」
「真宵から送られてきたやつもあっただろ」
「あー、ありましたねぇそういや」
食器を持って成歩堂がキッチンへ行くと、当たり前のようにゴドーも側についてきた。まるで犬の耳とシッポが見えるようなゴドーの様子に、成歩堂はどうにも口元が緩んで仕方が無い。
「そうだ、ゴドーさん」
洗ったお皿を布巾で拭きながら、成歩堂は隣りのゴドーを見上げた。
「さっきのあんぱん、まだちょっと苦くないです?」
「ああ、確かにな」
「間接キスぱんもなかなか効果的でしたけど」
「ああ」
「間接じゃなかったら、苦味も消えちゃうんじゃないでしょうか」
シンプルなメガネの奥から、成歩堂を見る淡い色の瞳が「おや?」と言いたげに細められた。
「なーんて。変わんないかな」
拭き上げたお皿を食器棚に戻して、さてDVDの準備でも、とリビングへ戻りかけた成歩堂は、ふいに腕を掴まれて引きとめられた。
後ろを見れば、もちろん引きとめたのはゴドー以外にはおらず。
「試してみれば、分かるんじゃねぇか」
口角を上げたいつもの表情で腕を引かれ、成歩堂は抵抗することなくその腕の中に納まった。すぐに寄せられたゴドーの唇。互いの唇が触れ合う間際…――。
「おねだり上手なコネコちゃん。嫌いじゃないぜ」
実に嬉しそうに、けれどそれを見せないように囁かれたゴドーの言葉に、成歩堂は益々口元に微笑を乗せた。
しっとりと重ねられた唇は互いに微笑んでいて。
ゴドーの言葉を受けてではないが、成歩堂もこっそり、心の中で囁いた。
「…?何か言ったか、まるほどう」
「いいえ?それより、苦いの消えました?」
「……クッ、わからねぇぜ」
「あれ」
「もう1度、試してみてもいいかい」
「ふふっ。どうぞ」
『甘えベタな大きなワンちゃん。そんな貴方が…、大好きです』
57の日はこうでなくちゃ、という感じのラブラブなお話ですよねv ワンコなゴドさん、当方も欲しい…!
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