この名を




侯爵である成歩堂が拝領した土地はかなり広い。土地が広いという事は、それだけ帝都からも離れる事になる。土地を拝領するだけの地位と家柄を持つ貴族は、帝都にも邸宅を構えるのが一般的だ。
勿論、帝都で事業を営む成歩堂も本邸に帰れない日もあるため、帝都にも別邸を構えている。人付き合いの広い成歩堂家の別邸だ。本邸に劣らない構えの邸宅である。成歩堂家ほどの貴族であれば、家令は一人などという事はありえないし、女中だとて両手以上いて当たり前だ。だが、私的な部分では人を立ち入らせたくない性質なのか、成歩堂家の使用人は少ない。家令は一人だけしか置かず、女中はわずか五人。庭師と運転手を含めても両手で足りてしまう人数しか居ないのだ。どの使用人も家令を措けば、当主が幼い時分から仕えている者ばかり。その事を当主自身が偶に苦悩している時がある。雇える財力があるのに雇わないのは罪なのだ、と以前零していた。それでも、見知った人間以外を傍に置きたくないのだとも。だからだろう。自分を連れた当主を見て、女中頭が驚愕の表情を見せたのは。
尤も、其れを知ったのは家令となって随分と経ってからだが。
兎も角、仕事の都合で半月ほど本邸へ戻れないという当主の言葉で、家令である自分と女中頭だけ一緒に別邸へと移っていたが、それも明日で目処がつくとの言葉に早ければ明日、遅くとも明後日は本邸へ移動となる。使用人が二人だけであれば、自ずと仕事も増えるがあの主人のためかと思えばそれも苦では無い。買出しもそんな増えた仕事の一つだ。本邸のある土地であれば、何代にも渡り出入りしている御用伺いが居るが、別邸のあるここ帝都ではそれも無い。それを面倒だとは思わないが、本邸のある土地とは違い、せかせかとした人の動きに気疲れする。主人に仕える前までは、この帝都で暮らしていたというのにもかかわらず、だ。
「神乃木氏?!」
手にした買出しの品を持ち直し、耳に届いたそれに足が止まる。
些か不自然に立ち止まってしまった所為で、素知らぬ振りをするにも遅いだろう。
今だその名で呼ばれる事があるとは思ってもいなかった、と言うのが正しい。
はたして呼ばれた方向を見れば、いつかの知り合いが其処に居た。
「神乃木氏!今まで何処で如何していたのだ?」
挨拶も無しに捲くし立てる相手に、肩を竦める。
「オイオイ、いきなりなんだい?」
「失礼した。久しぶりだな、神乃木氏」
非礼を詫びて、傍に近寄ってきた知り合いに内心苦い思いが込みあがる。
よりによって一番面倒な知り合いに捕まるとは、我ながらついてない。
他の人間ならば人違いで押し切るが、今目の前に居る知り合いはそれでは納得しないだろう。
「ああ・・・・・3年ぶり、か。アンタは相変わらずだな、御剣の坊ちゃん」
「坊ちゃんは止めて頂きたい。これでも御剣家を継いだ身だからな」
咳払いをして言われた事に、そうだったかと思う。
御剣も貴族の出自だが、家柄云々の前に部署は違えど、同僚であった過去が掠める。
「そうか。お父上は元気かい?」
「ああ、すこぶるな。先ほども聞いたが、神乃木氏は今まで如何していたのだ?」
「如何と言われてもなァ」
「警察庁を辞めたと聞いて驚いたのだ」
その言葉に、ふと昔を思い出す。
それまで追いかけていた事件から外され、編纂室勤務を命ぜられた時点で厄介者扱いされている事など承知していた。
勿論理由は、病で抜け落ちた色素の所為だ。髪の毛はいい。白い髪など、加齢と共に誰しもが持ちえるものだ。だが、目の色は受け入れられなかった。日本人離れした淡い色。灰色に近いその色に、気味悪がられたのを憶えている。
今までの自分を否定されても警察に居たのは、追っていた事件の為だ。外されても、せめてと思って。だが、それすら望めないのだと気がついて失意のまま辞表を提出していた。奇異なものを見る世間の目に、疲れていたのかもしれない。
「神乃木氏?」
「・・・・ああ、すまねェな。今は警察とは関係ない仕事をしてる。待遇も良いぜ」
「そうか・・・・。勿体無い、貴方ほどの人が警察を離れるとは・・・・。せめて、私にもっと力があればよかったのだが」
残念そうに言う御剣には悪いが、今ではそれで良かったと思っている。そのお蔭で主人に出会えたのだから。
今でも憶えている。
正面から見たときの、主人のあの一言を。
「・・・・ゴドーさん?」
聞き間違えることなどありえない声に、周囲を見る。
「旦那様」
仕事の帰りなのだろう、不思議そうな表情で此方を見つめる主人の姿が其処にあった。
「成歩堂ではないか」
御剣の言葉に、二人は知り合いなのだと知る。
「その声は・・・・御剣」
自分の姿の陰になっていた所為で認識が遅れたのだろう。近づいた主人が相手の名を呟く。
「先々月の山田男爵の晩餐会以来だな、元気かい?」
家で見せる笑みとは違うが、それでも気の許せる相手に見せる笑みで主人が御剣に問う。
「ああ。久しぶりだ、成歩堂。先月の立見伯爵の晩餐に参加してなかったな。随分忙しいようだが、自愛したまえ。・・・・旦那様?」
頷きを返してから、首を捻って御剣が先ほど自分が声にした言葉を問うように重ねる。
「旦那様、お荷物を此方へ」
主人とは素の口調で話す事が殆どだが、それはあくまでも人目の無い邸宅内での話でしかない。
人前ではきっちりと線を引いて、成歩堂侯爵家の家令として恥じない言動に戻す。
「それは僕の言葉だよ。少し持つから」
手を差し伸べてくる主人に、丁寧に断りを入れる。
「そんな事を旦那様にしていただくわけには参りません」
「うーん。僕のほうが明らかに荷物少ないのにな。鞄くらいは自分で持つよ」
肩を竦めて困ったように笑う主人に微笑む。
「神乃木氏は、成歩堂の家で働いてるのか?」
答えるべきか悩んでいれば、主人が頷きを返す。
「ゴドーさんはうちの家令だけど・・・・・神乃木?」
御剣の呼ぶ名に、主人が首を傾げて問いかけてくる。
何と答えるべきかと思ったが、口をついたのは在り来たりな言葉でしかなかった。
「・・・・・棄てた名です」
「そう」
内心、苦い思いで答えれば、主人が一瞬目を伏せる。
「・・・御剣、ゴドーさんと知り合いだったんだ」
「ああ。昔、世話になった事があるのだ。侯爵家の家令だとは知らなかったのだが」
「そうか。ゴドーさん、その荷物はもしかし無くても夕餉の買い物かな?」
御剣の答えにそれ以上興味を見せる事無く、主人が荷物の内容を推し量る。
「はい」
「じゃあ、早く帰らないと千尋さんに怒られてしまうね。御剣、僕もうちの家令も失礼して良いかな」
良いかなと了承を求めるように聞こえるが、内容は決定事項で問いかけではない。
「ム、すまない。長い時間引き止めてしまった」
「良いんだよ。じゃあ、またね」
にこりと人好きのする笑みを浮かべて、あっさり御剣と分かれて別宅への帰路を辿る。
思いがけず、主人との帰宅となったが買い忘れなどは無かっただろうか。何も言わず前を歩く主人に三歩と遅れる事無く後ろにつく。
別宅の門を潜って、もう少し歩けば玄関の扉につくという距離で主人が立ち止まる。
如何したのかと訝しみつつも、同じように立ち止まれば、黙々と歩いていた主人が振り返る。
「・・・・・なんて呼びますか?」
その言葉に、過去を思い出す。
主人と初めて出会った、あの日の事を。
あの時も、ついていくと決めた自分にそう主人が問いかけた。
一言一句違えず、同じ言葉で。
成歩堂家で名を呼ぶのは主人だけだ。他の使用人は自分のことを「執事さん」と愛称のように呼ぶ。成歩堂家の執事は自分ひとりなのだから其れで話が通じるのだ。女中頭や庭師、運転手も同じように呼ばれる。他の使用人に名前で呼ばれる事があるのは比較的人数の居る女中だけだろう。他の使用人の名は、主人以外呼ばない。
あの時と同じ言葉。
そして自分は答えたのだ。
「ゴドー、と」
「・・・・・・・それで良いんですか?」
問いに返さないのを是と受け取ってくれたのだろう。
主人が他人が居るときには見られない、花のようにふわりと柔らかい微笑を見せる。
「ゴドーさん」
目の前の主人だけが呼ぶ、己の名。
「ああ」
何が楽しいのか、別邸で女中頭に迎えられるまで、主人が繰り返し名を呼ぶのに応えを返した。
「ゴドーさん」
主人が呼ぶ度に、呼ばれたことに内心に歓喜が湧き上がる。
神乃木荘龍。
そう名乗っていたのは過去の自分。
主人に言った通り、棄てた名でしかない。
ゴドー。
この名は今の自分。
成歩堂侯爵家─・・・・成歩堂龍一の唯一の家令。
其れでいいのだ。
それ以外の何者にもなりたいとは思わない。
過去を無かった事にはできないが。
それでも神乃木ではなく、ゴドーと呼ばれたいのだ。
唯一と決めた主人にこの名を呼れるだけで、幸福なのだから。







憧れの柚鳥さまに、ゴドナルを書いていただける日が来るとは…。純愛ですよ!ナルを好きすぎるゴドさんですよv 是非、前作をご覧下さいませ〜。