初めてのキス



 少女の、明るく元気な声が聞こえなくなって早30分。
 だからこそ自覚してしまうのは、今事務所にいるのは二人だけだと言う事。
 別に、今日初めて彼と二人きりになった訳ではないのだが、所謂恋人同士となってから二人になるのはこれが初めての事。
 書類を片付けなければ、二人であるという事に気を取られない様にしなければ、と思えば思う程、思考は書類から上滑りしていく。
 王泥喜がちらりと視線を上げてソファの方へ目をやると、こちらを見ていたらしい成歩堂がふ、と口角を上げるだけの笑みを見せた。
 それに何故か焦った王泥喜は、慌てて視線を書類へと戻す。
 それでもやはり思考は書類へと戻ってこない。
「オドロキくん」
 不意に名前を呼ばれて、ドキン、と心臓が高鳴る。
 狼狽を必死に隠そうとして、なんですか、と問えば、全て分かっているとでも言いたげな成歩堂がくすりと笑んだ。
「君こそ、何だい?何か言いたい事でもあるのかな?」
 全てお見通し、とでも言いたそうな視線が王泥喜を縛る。
「あの…」
「うん?」
 何かな、と優しく続きを促す声。それに促されるまま、王泥喜は大人しくそれを口にする。
「二人きり…ですね」
 言った瞬間、実は後悔したのだけど。
 恥ずかしくて堪らない。何故言ってしまったのか、と後悔すると同時、赤く染まった顔を成歩堂から隠す様に机に視線を落とす。
 一連の王泥喜の動きを見ていた成歩堂が、あははと大声で笑い出したので、王泥喜の顔は余計に朱に染まる。
「オドロキくんは可愛いねぇ」
 からかう様な響きのその言葉にも、反論すれば逆に何か言われそうで出来なかった。
 だからただ王泥喜がうう、と唸っていると、机の方に成歩堂が近寄ってくる。
 机に手をついて、王泥喜を至近距離で見下ろしてくる彼は、どこか怪しげな笑みを浮かべていて、即座に目を離す事も、仕事中だからと注意する事も出来なかった。
 こんな至近距離で彼を見るのは初めてだったから、余計だった。
 つ、と成歩堂の視線が下へと移動し、どうやら書類を覗き込んでいる様だと思ったが、今更隠す訳にもいかなかったし、そんな暇があろう筈もない。
「あんまり、進んでないみたいだけど?オドロキくんは書類じゃなくて何を見てたのかな?」
 分かっているだろうに、意地悪く聞いてくる。
 王泥喜がそれに答えずにいると、王泥喜に視線を戻した成歩堂が顔を近付けてきた。
 どちらかがもう少し顔を寄せれば、触れる位置。
 成歩堂の吐息が顔に掛かる。
 少しだけ、王泥喜は顔を寄せた。
 後、3センチ。そこから先が進まない。緊張で手に汗をかいているのに気付き、その汗で書類の文字を滲ませる事のない様にと、手をスラックスで拭う。
 一連の動作をしている間にも、目だけは成歩堂に縫い付けられていて、そこから視線を外してしまう事がどうしても出来ない。
 くす、とまたも成歩堂が笑う。
 それさえも王泥喜を誘っている様で。
 顔の位置はそのまま、視線も外さずに、ただ王泥喜は今更の質問を投げ掛けた。
「キス、していいですか…?」
 成歩堂は微笑んだまま。そしてやはり視線を外さないままで。
「いいよ」
 成歩堂のその答えを待ってから、王泥喜は後の3センチを少しずつ狭めて行く。
 後1センチを切っただろうか、という辺りで成歩堂の目が閉じられる。
 それを真似する様に王泥喜もまた目を閉じ、顔を少しだけ傾けた。
 そして――触れる。
 一度触れてしまえば抑えはきかなかった。
 拭ったまま、膝の上に置いたままだった手を伸ばして、片方を成歩堂の頬に当て、もう片方を首の後ろに回す。
 引き寄せられるまま、成歩堂が机にぶつかったらしく、ガタン、と音がしたけれど、彼を案ずる声さえ出さずに、ただ唇を貪った。
 今や口中に入り込んだ舌は、それまでの戸惑いや緊張などが信じられない程に口内を蹂躙し。
 苦しそうな成歩堂の声を聞いて漸く離した唇の間で、銀糸が伸びるのを薄目で確認した。
「…は、ぁ」
 かなり苦しかったのだろう、成歩堂の目は少し潤んでいて、頬も紅潮していて、それでやっと王泥喜は、自分が彼を気遣いもせずにキスに没頭していた事に思い当った。
 慌てて、成歩堂に伸ばしていた手を引こうとすれば、頬に当てていた手をすんでの所で成歩堂が掴んだ。
 動きを思わず止めてしまい、首に回した手も結局は肩を抱く形で留まってしまい、それに対して今更ながら狼狽してみせれば、成歩堂は静かに王泥喜の名を呼んで来る。
「オドロキくん」
 返事をしないでいれば、再度名前を呼ばれる。
「…はい」
 やっと返したその返答の声は、我ながら情けない程に震えている。
 成歩堂が掴んだ王泥喜の手に唇を当てて、横眼で王泥喜を見てくるので、視線も何も彼に縫い付けられてしまって離す事が出来ない。
 せめて何かを言わなければ、と思うが、何も言う権利をなくしてしまっていた。
 王泥喜の手に唇を当てたまま、成歩堂は再度微笑んで言う。
「謝らないで。後悔しないで」
 言われた言葉に、王泥喜は瞬きを繰り返す。
 言葉が理解出来なかったからではない。寧ろその逆だ。
 意味は分かり過ぎる程に分かっていて、それでも尚、何故と思わずにはいられなかった。
 何故、分かったのだろうか、と。
 手を離した後に王泥喜は成歩堂に対して謝罪しようとしたのだし、成歩堂の潤んだ瞳を見てやり過ぎた事に対して後悔してしまったのもまた事実だ。
 それを言い当てられたのが不思議だったし、やり過ぎた事に対して「後悔しないで」と言った理由が分からなかった。
 でも、と言いさした王泥喜に、成歩堂は首を横に振ってそれを留める。
 その拍子に手に当てられていた唇が離れて、王泥喜は少しだけその温もりが離れてしまった事を残念に思う。
「いいんだよ。挑発したのは僕の方だし、そもそも…僕たちは付き合ってるんだから。ね?」
 優しい声音で言われたその言葉に、王泥喜の内で、何か胸に詰まるものがある。
 くすくすと笑いながら、成歩堂はただ、と言葉を続ける。
「初めてのキスがディープだとは思わなかったけどね」
 王泥喜は頬を染めながら、じゃあ、と言って肩に置かれたままの手に力を込めた。
 そしてまた顔を寄せて、今度は触れるだけのキスをしたのだった。




オドナル! 初々しいですねーvv ナル受けが次々とアップされていて、嬉しい限りです。次のフリー小説も楽しみにしております!