永遠の終わる日
「法介、お隣は今夜いらっしゃる? お届け物してくれないかしら」
コンコンと柔らかなノックの音と一緒に、母の声がドア越しに聞こえる。
俺は寝転がっていたベッドから上半身を起こして、机に置いてある時計に視線を投げた。時刻は夜の十一時を過ぎたところ。よそさまのお宅を訪問するには遅すぎる時間だけど、お隣にとっては一番オッケーな時間だと言っていた。
(最近忙しそうだけど、今日はどうだろ)
窓のカーテンを開けてガラス越しにお隣をのぞき、小さな明かりが揺れ動くのをとらえる。ゆらりとまたたく光は、蛍光灯の無粋な照明ではなくロウソクの淡い明かり。
成歩堂さんの在宅を示すそれを見つけた俺は、身だしなみを整えると勢いよくドアを開けた。
「今ならいるみたいだから持ってくよ」
ありがとう、と母はえくぼを浮かべて持っていたお皿を差し出す。ラップから透けて見えるそれは、夕ご飯に食べた煮物だった。
「成歩堂さん、和食が好きなんですって」
母は少女のように頬を染め、ふふ、と口元に手をやった。
(へぇ、和食派ってことは、俺と同じか……)
成歩堂さん情報を一つストックして、俺もまた一緒になって頬を染める。
「行ってらっしゃい、法介。成歩堂さんによろしくね」
見送りの声を背中に受けながら玄関を出た。向かう先はお隣のおうち。もうずっと空き家だったのだけれど、つい先日荷物を運び込む業者が現れたかと思ったら、一人の男が住むようになっていた。
成歩堂龍一。挨拶に来た時そう名乗った彼は、自称ピアニストなんだと笑ってみせた。今まで外国で暮らしていたのだけれど、母国が懐かしくなって帰ってきたのだそうだ。親の遺産を食い潰しながら、ジャズバーなどでピアノを弾いていた。日本には休暇を兼ねて戻ったのであまり外出をしないだろう。夜型なので日中はほとんど寝ていてよく居留守を使う。防音はしているがピアノの音が漏れ聞こえたら申し訳ない。などと言って、小さく笑う。その表情が大人の男なのに無邪気で明るく、初対面にもかかわらず俺はこの人がとても好きになっていた。
無精ひげにニット帽、清潔ではあるけれど使い古されたトレーナーにサンダル。一見したら不審者なのだけれど、成歩堂さんは独特の雰囲気で魅了して。特に、声楽をたしなんでいる母は成歩堂さんの教えてくれる海外の音楽事情に夢中になった。
あれから、早半月。まだ少しの時間しか経過していないけど、俺たち家族と成歩堂さんは濃密な近所付き合いをしている。俺や母、みぬきはみんな成歩堂さんが好きで、大好きで。
かなりの頻度で訪問しているのと、べったり甘える妹に少しばかり嫉妬して、迷惑じゃないですかと聞いたら、成歩堂さんは淡く目を細めて首を振った。
弟が寝たきりで一人ぼっちだから、むしろありがたいよ。ただ、もしよければ……。
ためらうように眉を寄せると、自分のことは周囲にはあまり言わないで欲しいと頭を下げた。
なんでも、悪質なストーカーにつきまとわれているらしく、引っ越ししても引っ越ししても追いかけてくるのだそうだ。ストーカーからの襲撃を受けるたびに成歩堂さんは居場所を変えて世界中を点々としているらしい。王泥喜くんのトコとは長く付き合いたいからさ、なんて言われたら断れるはずもない。俺だって成歩堂さんとずっとお隣さんでいたいのだから、学校の親友にだってナイショにしちゃうことにした。
「……いつ見ても、お化け屋敷みたいだな」
薄汚れた廃屋。助けを求めるように、空へ向かって壁を伝う蔦。ところどころひび割れて少し崩れた塀。
成歩堂さんが住む前までは廃墟だと思っていた洋館。肝試しの良いスポットとなりそうだけれど、敷地の中に入るのは難しい。侵入防止のため、至る所に有刺鉄線が張り巡らされているのだ。過剰なくらいに高い塀と鉄線(しかも錆びる頃にはいつの間にか新しいのが追加されているという次第)は誰も寄せ付けず、隣家は長い間寂しいたたずまいでいた。
門のすぐ隣にあるインターホンを押す。月日のせいで黒く汚くなったそれはボタンを押すとなかなかもとの位置に戻らなくて、俺は仕方なく爪でコリコリと引っ掻いて戻した。
『やぁ、オドロキくんか。こんばんわ、鍵は今開けたから入っておいで』
明るい声がスピーカーからノイズ混じりに聞こえて、俺はお邪魔しますと頭を下げた。
ギギときしんだ音を立てて門が開き出した。その隙間からするりと中へ入って背後を振り返ると、通り抜けたのを関知して同じようにきしんだ音を立てて閉まっていく。俺は小さく一礼し、長く伸びた雑草を踏みながら屋敷の入り口へ向かった。
チャーリーくんはオドロキくんがお気に入りなんだよ、といつだったか成歩堂さんに言われたことがある。誰ですかそれと突っ込んだら、この門のことだと言われた。いつも入る時に礼儀正しく挨拶するところが一番のポイントだったらしい。門にまで名前をつけているのが成歩堂さんっぽくて、なんとなくほほえましいなと思った。
(なんていうか、成歩堂さんって年の離れたお兄さんみたいなんだよな)
観音開きになっている大きな扉に手をかけると、それこそ恐怖ものの映画に出てくる洋館のように、目の前に真っ暗闇が広がった。でもこれは恐怖映画じゃないし、何回も訪問したことのある成歩堂さんちだから、俺は安心しきって中に入った。
「こんばんわ、成歩堂さん」
俺の家はごく普通の一戸建て。だけど、お隣とはいえこちらのお家はちょっと古くて大きい。どこかの国の洋館を移築したものだと小さい頃に聞いたことがある。部屋数もそれなりにあるから、成歩堂さんがどこの部屋にいるのか分からず、俺は皿を手にポツンと立ち尽くした。
「ばぁっ!」
不意に肩をつかまれ、ぎゃーと叫び声が喉から飛び出す。
「オドロキくん、うるさい」
ライターでロウソクに火をつけた成歩堂さんは顔をしかめて首を振る。俺はドキドキバクバク激しく鼓動する胸を押さえて、なんなんですか、と文句を言った。
「子供じゃないんですから、変なことして驚かさないで下さいよ!」
「あはは、ごめんね。まさかこんなに驚くなんて思ってもみなくて」
成歩堂さんは明るい表情で笑い、怒っちゃったかな、と小さく首をかしげた。くりくりと丸い目で見つめられて、それだけで頭の中が熱くなる。俺や母や妹を悩殺したことのある笑顔は強力で、別に気にしていないと首を振るしかできなくなった。
「これ、母に持って行くように言われたんです。余り物ですがって」
持っていた皿を手渡すと、成歩堂さんは嬉しそうに目を輝かせた。
「おすそわけありがとう。お料理上手なんだよね、オドロキくんのお母さんって」
「和食好きってホントですか? だから最近、夕ご飯がそればっかりなんですね。母がもしよければテーブルで一緒に食べればいいのにって言ってましたよ」
「んー……、お気持ちはありがたいんだけどね、寝たきりの弟を置いて家を空けるわけにはいかないよ。もしもまた弟の身に何かあったらさすがの僕も、ね」
寂しげな表情で言いながら、成歩堂さんは視線を二階の方へ流した。おそらく、寝たきりの弟さんはその二階にいるのだろう。ロウソクの明かりは身近な周辺しか照らさず、遠くはただ色もない暗闇が残るだけ。カタリとも音がしない二階の部屋に、成歩堂さん以外の家人がいるとは思えなかった。
(そういえば、弟さんに会ったことないよな)
以前聞いた話によると、例のストーカーに追い回された際、成歩堂さんをかばって生死をさまよう大怪我をしたらしい。それ以来、弟さんは意識不明のまま眠り続け、ついには病院からも見放されたそうだ。僕のせいで傷ついた弟を一人にはできないよ、そう言って唇を噛みしめた成歩堂さんの表情がひどく険しくて、かわいそうだったのをよく覚えている。
「お見舞いとかダメですか? その、母の庭にたくさんの花があるし」
どんな弟さんなんだろうと好奇心込みで訊ねる。成歩堂さんの肉親ということは、顔立ちは多分似ているだろう。身を挺して兄を助けるような、芯の通った人。眠り続けているとしても、せめてもの気紛らわしに花一輪飾らせてもらいたいと思った。
「気持ちだけ受け取っておくよ、ありがとう。でもあの子は茨姫だからね。王子さま以外に会わせることはできないのさ」
行儀悪くラップをめくってつまみ食いしていた成歩堂さんは、手にしていた明かりを壁にしつらえてあるロウソクに分ける。どういった仕組みになっているのか、手前の一つに火が灯ると同時に、壁にあったほかのロウソクたちまでポツポツと火がつたっていく。
「い、茨姫って何なんですか」
「知らないのかい、オドロキくん? 茨の城に閉じ込められたお姫さまは、王子さまの永遠のキスで目を覚ますんだよ」
歌うように返すと、成歩堂さんはドアの一つを開いて入っていった。そのあとを追って歩きながら『眠り姫』の話を思い出す。
(確か、悪い魔女に呪いをかけられて、百年も眠っちゃうお話だったよな)
針で指を刺して眠りに落ちた姫は、やがて訪れた王子によって目を覚ます。異国の王子は茨をかき分け試練を乗り越えて檻の中で眠り続ける美しい姫に出会い。そうして、魔女の呪いは消えて全ては幸せな結末で終わる。
妹のみぬきの好みがソッチ系の映画なのだ。無理矢理付き合わされて何度となく見たことがある。けれども、王子や姫の気持ちがよく分からなくて曖昧にしか覚えていない。
「一曲、聞いていくかい?」
成歩堂さんはそう言うと、俺の返事も待たずに鍵盤へ指を乗せた。広く大きなピアノ室。初めて訪れた時は驚いたものだ。部屋の中央にグランドピアノがぽつりと置かれ、それ以外は何もなくむき出しの床に壁だったのだ。インテリアのいの字もない、あまりにも空虚でそっけない部屋。
せっかくなんだし壁に絵とか飾ったらどうですか、と提案したのだけれど、ロウソクの火があるからこのままの方が都合がいいらしい。フローリングにはうっすらと足跡。成歩堂さんは海外生活が長いせいで、靴履きのまま家の中を歩き回る。掃除は定期的にしているようだけど、でも、ちょっぴり汚くて。オドロキくんも靴でいいよ、と言われ、慣れないけどそうさせてもらっている。
「そこに座っておいで」
成歩堂さんはなめらかに指を動かしながら、顎をしゃくって出窓を示す。確かにソファもないこの部屋だと、腰を落ち着ける場所といえばそこしかないだろう。俺はピアノの邪魔にならないよう気をつけながら出窓まで歩いた。
大きめの窓にはカーテンなどかかっておらず、広がる夜空が綺麗に見える。
(今日はやけに月が大きいな)
圧倒的な月の存在感はまがまがしく、赤く染まった月面がなんだか気持ち悪くて。
俺は慌てて窓の向こうから視線をそらし、そうして、成歩堂さんの方を見て驚きに息をのんだ。
いつの間にそこにいたのだろう、成歩堂さんのすぐ背後に一人の男が立っていた。ひらひらとレースのような布で首元を締めて、中世の貴族とかが着そうな時代錯誤な服をまとった男。けれどそれが仮装や道化めいて見えないのは、男の顔立ちがとても整っているせいと醸し出す雰囲気が気品と優雅さに満ちていたからだ。
「気をつけたまえ、成歩堂。キミには隙が多い」
不機嫌そうな顔が地なのか、ムッと唇を引き結んだまま、男が短く言った。
「ご心配ありがとう、でも僕は大丈夫だよ。それで、あの子は?」
突然現れた男にさして驚いた風もなく、成歩堂さんも淡々と返す。さすがにピアニストと言うべきか、会話をしつつも響き渡る音は流れるように美しくて、どなたですかと訊ねることもできずに俺はじっと耳を傾けた。
「彼は仲間たちのいる安全な場所へ移動した。キミはどうするのだ、もうすぐ辿り着くぞ」
どこからか取り出した分厚い黒いマントを羽織ると、男は成歩堂さんへそっと手を伸ばした。指先で白いうなじをたどりながら、切れ長の目をさらに細くすがめる。
「背信を疑うわけではないが、私としては再会などおススメできない。あの男はキミに不幸しかもたらさないだろう、それはあのことからも重々承知しているはずだ」
「ご忠告感謝するよ、でも僕とて吸血の民の一人だ。やすやすと敗北するつもりはないし、それに、キミやあの子が姿を隠すまでの時間稼ぎをしなくちゃね」
「……そうか。では、気をつけることだ。一時の感情に身を委ねて良い結果が得られたためしはないのだからな」
その言葉を言い終えると男は歯をむき出しにして成歩堂さんの首へ噛みついた。皮膚をすする水音が聞こえて、俺はひっと短く悲鳴を上げた。
その声で初めて存在に気づいたのか、男は成歩堂さんの皮膚をすすりながら横目でチラと視線を投げ、けれどもすぐに興味をなくしてまぶたを伏せた。
外からは明るすぎる満月の光。室内のロウソクはいつの間にか消え、月光に浮かぶ男と成歩堂さんの姿はひどく淫靡じみて見えた。
人形めいた男の横顔、白い喉、何かを嚥下する音。
ピアノの音が途切れ途切れになり、消えていく。
苦痛のような、恍惚のような、どちらともいえない表情をしていた成歩堂さんは、不意に鋭い目を向けて叫んだ。
「オドロキくん、そこから離れるんだっ!」
声から少し遅れてガラスが割れ、月を遮ってかぶさった影が窓からの侵入を果たす。間一髪、距離を取った俺は破片の攻撃をくらうこともなく、いきなりの展開に追いつけないままそこに立ち尽くした。
「会いたかったぜ、まるほどう。アンタの肌が恋しくて、こんな東洋の島国まで来ちゃったこの俺を褒めてくれよ」
「……ゴドーさんもしつこいですね。僕は言ったはずですよ、弟を傷つけたアナタを許すことはできないと」
ゆらりと椅子から立ち上がった成歩堂さんのそばに、先ほどの男はいない。いつの間にいなくなったのか、現れた時と同じように気配さえ感じさせず闇の中へ消えたようだった。
ゴドー、と呼ばれた大柄な男は顔におかしなマスクをつけたまま室内を見回し、すぐ近くにいた俺の姿を見咎めてどういうことだと低くうめいた。
「母国の地の人間を仲間にしねぇ、ソイツがアンタらのルールだろう。まるほどう、いくらアンタでもルールを無視したオイタはいけねぇぜ」
「残念ですが、アナタ方が考えている以上に僕らは制約に縛られているんですよ。僕は母国である日本で仲間を作らない……だから、色々なものを諦めたんです」
成歩堂さんは言って薄く笑った。その表情ははっとするほどに綺麗で、はかなかった。どこかからかって見える笑いでも、挑発的な色っぽい笑いでもない、孤独を知る寂しげな微笑。
男はかすかに息をのんで数歩前によろめく。唇が小さく動いて、リュウイチ、と、成歩堂さんの名前を刻んだ。
「ゴドーさん、その仮面どうしたんですか? アナタに似合ってますけど、久しぶりの逢瀬にはちょっと無粋すぎますね。それとも僕にはもう素顔を見せたくないと遠回しに言っちゃってるんですか」
「そいつは違うぜ、コネコちゃん。こいつは……」
男は大きな手のひらを顔に置いた。かすかな機械音を立てるマスクは、真っ赤な光でその手のひらを照らす。
「冗談ですよ、説明されなくとも知っています。ハンターの義務でしょう? 僕らの魔力をシャットアウトするための標準装備。アナタがそれを身につけている限り、僕は対立するしかないんです。弟を傷つけた相手、敵の仲間として」
男から視線を外さないまま鍵盤の蓋を閉めると、成歩堂さんはピアノの端に置いていた母の煮物をひょいとつまんで食べた。
「言っておきますが、彼はただの隣人で、ラミロアさんもみぬきちゃんも僕と無関係ですから。……あぁ、この味をもう食べられなくなるなんて残念だな」
ラップをきちんと整えて皿を戻すと、大きく息を吸って胸を張る。さっきの男が噛みついた首筋に二つの穴を見つけて、俺は慌ててポケットの中を探って絆創膏を取り出した。
「なっ、成歩堂さん、バンソーコーありますけど」
血は出ていない傷口でも一応手当をしておいた方がいいだろう。そう思って差し出したのだけれど、トノサマンがプリントされた絆創膏と俺とを交互に見たあと、成歩堂さんは楽しそうに肩を揺すって笑い出した。
「やっぱり可愛いなぁ、オドロキくん。ありがとう、でも大丈夫だよ」
ゆっくりとした動作でかぶっていたニット帽を取り、成歩堂さんは笑顔マークのバッジに小さくキスを送る。
「その首の痕は何だい、まるほどう。浮気は許さねぇぜ」
「この牙はパートナーを持たない僕を心配して、御剣が残してくれたんです。アナタとのことがあって以来、こちら側でも監視下に置かれていましてね。アイツは僕が仲間たちに狙われないようにマーキングして、さらには眠り続ける弟を守ってくれているんです」
見せつけるように首筋の痕を撫でる成歩堂さんに、男はぐっと拳を握りしめて首を振った。
「アンタの弟のことは、悪かった。言い訳するつもりはねぇが、俺は」
「裏切りは嫌いです。嫌いだからこそ、僕は裏切り者になりたくない。ゴドーさん、オドロキくんのいるこの場でバトルを繰り広げるほどアナタも愚かじゃないでしょう、僕も彼を巻き込むのは本意じゃない。そして、弟を残して灰となるわけにもいかない。だから、さよならです。……オドロキくん、元気でね」
成歩堂さんは口づけたニット帽を強く抱きしめる。その途端、出窓から差し込んでいた月明かりが消え、室内は完全な黒に塗りつぶされた。
「逃げるつもりかい、コネコちゃん。アンタがどこへ逃げたって俺は追いかけ続けるぜ。その手も足も声も身体も、血の一滴にいたるまで、アンタは俺のものだ」
高らかな宣言と共に闇が晴れる。消えていた赤い月が薄ら笑いを浮かべて部屋の中を明るく照らした。
広々とした室内。むき出しの床。飾り気のない壁。それらはさっきまでと同じなのに、それ以外の全てが様変わりしていて。
「え、あ、あれ?」
男が侵入してきた時に割られたはずのガラスはヒビ一つなく窓にはまっており、室内の壁沿いにあったロウソクは一本もなく、中央に配置してあったピアノもまた姿を消していた。
「な、成歩堂さん? どこに行ったんですか?」
成歩堂さんがいたはずの場所には青いニット帽がちょこんと置き去りにされ、何年も前から放置されていたかのようにほこりにまみれていた。
男はチッと舌打ちして帽子を拾い上げると、悔しげに肉厚な唇を噛みしめた。
「あの、成歩堂さんはどこに、てか、今の、何だったんですか」
理解できないことばかりが次々に起きて、混乱のまま口早に訊ねる。俺の問いかけにフンと鼻を鳴らし、男は汚れを払い落として編み目を指でたどった。
「まるほどうの奴から何も聞かされていねぇのかい、アンタ」
「えっと、外国でピアニストをしていて、寝たきりの弟さんがいらっしゃって、門の名前がチャーリーくんで、ストーカーがいて……も、もしかして、アナタが成歩堂さんのストーカーなんですかっ」
「俺たちの今までのやりとりを見てそんなコメントが吐けるとは大物だな、ツンツン坊や。どうせ信じはしねぇだろうが、ついでだし話してやるぜ、静かに黙ってよく聞きな」
男は成歩堂さんがそうしたように、笑顔マークのバッジにチュッと口づけた。
「俺はゴドー、本名じゃねぇがコイツが今の通り名になっている。ヴァンパイアハンターって映画やらのフィクションの中で聞いたことがあるだろう、吸血鬼を狩り滅ぼすための討伐者、ソイツが俺の仕事ってわけだ。そして、まるほどうは俺の獲物、それも首領の側近として名高いヴァンパイアだ」
吸血鬼の魔力を遮るには視界を防御するコイツが必要なのさ、と言いながら、ゴドーは顔から赤く光るマスクを外した。
仮面の下の素顔は、母なら一発で好きになるだろう、苦み走った渋いいい男だった。彫りの深い顔立ちにすらりと通った鼻筋、寂しげな色を放つ薄い色彩の目。任侠ものの映画に出てきそうな、迫力のある危険な雰囲気が男の身体から漂ってくる。
「その魔力によって人を魅了し、血を媒介に生気を奪い、そうして虜にしたヤツらをしもべにしちまう。血を奪われた人間は吸い尽くされて死んじまうか、忠実な下僕になるか、パートナーになるか、三つに一つ」
なぜこうまで圧倒される空気なのかと考え、それが男の目の下にある傷のせいだと気づいた。ちょうどマスクに隠れる部位に一文字に切られた傷跡がある。ずいぶん昔のものだろうそれは淡い色の肉が盛り上がりひどく痛々しい。キズモノ、イコール、ヤクザ、という図式が頭の中にあるせいか、その傷跡だけで気圧されてしまったのだ。
「吸血鬼は人間だった頃の母国からパートナーを作れねぇ。血を吸うことも禁じられている。だから、アンタらにとっちゃ、まるほどうは良き隣人だっただろうな。だがそれも今夜限りだ。ハンターにかぎつけられた以上長居は無用、ケツまくって逃げちゃうしかねぇからな」
小さく落ちる低い声はひび割れた鐘の音のようだった。外したバッジを胸ポケットに突っ込み、ゴドーさんは靴音を響かせてこちらへ近寄った。戸惑う俺の頭に帽子をかぶせ、大きな手でポンと撫でる。
「アイツの忘れもんだ、大切にするんだな」
「あ、あのっ」
「悪いがこのバッジはいただいちゃうぜ。まるほどうの魔力が残っている、ハントの手助けになるだろう」
ゴドーさんはクツクツと喉奥で笑い、血のような月光を浴びて顔を仰向かせた。
「何度だって追いかけてみせるさ、アンタは俺の……俺だけの獲物だ」
それは悲しげで。それは嬉しげで。
それは――いとしげで。
切ない想いが空気を響かせて闇夜を満たした。
(このヒトと成歩堂さん、どんな関係なんだろう。敵対してるっていうより、むしろ……)
問いかけるまなざしに気づいたのか、ゴドーさんは手を伸ばして帽子の端をつまむと、力任せにぐいと下へ引きずり下ろした。目隠しをされたように視界をふさがれ、俺はあわと両手を振り回す。
「全ては一夜の夢さ、トンガリ坊や。元気でな」
閉ざされた深い闇に見えるのは、光の点。点はロウソクのようにゆらゆらとうごめいて大きくなって、どこかの情景を映し出す。
そこは、外国人が集まる異国のバーだった。ほこりをかぶった古くさいピアノに、食べかすなどで汚れたテーブル。ゲームでもしていたのか、乱雑に散らばったカード。洗練などという言葉はくそくらえな、廃退的な雰囲気の店。夜の黒を追い出した店内はタバコの煙でかすみ、男や女の声がひっそりと笑いさざめく。
ピアノの前に座るのは成歩堂さん。楽しそうに笑いながら奏でていたのに、ふと真顔になって何かに導かれるように入り口を見やる。入ってきたのはマスクのないゴドーさん。人待ち顔でぐるりと店内を見回し、目当ての人物を見つけきれずに険しい顔で舌打ちする。そして初めて、自分を見つめる成歩堂さんに気づいて。
絡み合う視線。止まる時間。喧噪は遠ざかり久遠の鎖を結ぶ。
――偶然は、運命を作り出した。
ピアニストの表を持つ成歩堂さんは吸血鬼で。エグゼクティブを気取るゴドーさんはハンターで。お互いにお互いの真の姿を知らないまま、二人は恋に落ちた。
重なった想いはどんどん深まって魂に食い込み、何もかもを蕩けさせ一つに混じる。鍵盤の上を踊る二組の手。こぼれ落ちる笑顔。つかの間の安らぎ。
けれど、ゴドーさんの前に一人の男が現れる。白い髪に白いひげ。紫がかったサングラスで目元を覆い、浅黒い肌の男は口元だけに笑いの形を作る。
ゴドーちゃん、最近どう? まさか役目を忘れちゃったの? キミが毎夜のように会っている男はハントすべき相手なんだよ。あんまりね、好き勝手にするっていうのなら。ま。キミだけがハンターじゃないからね。獲物は横取りさせてもらうよ。
笑い声。手拍子。追いつめるための威圧。男に突きつけられた思いがけない事実に、ゴドーさんは身動きが取れなくなった。ヴァンパイアは仕留めなければならない宿敵。けれど、その胸に杭を突き立てるにはいとおしすぎる相手。
葛藤。後悔。憔悴。絶望。狂おしいほどの逡巡の果てに、ゴドーさんは選んだ。成歩堂さんに銀の銃弾を放ち、そして、自らもまたその後を追って死ぬことを。
ゴドーさんが手を下さなくても、男の指示により別なハンターが成歩堂さんの命を狙う。それならば、この手で最後の息を奪った方がいい。一人で灰にはしない、すぐにあの世まで追いかけてみせる。数分の間だけ我慢して欲しいと自らのエゴをむきだしにし、現世で共に生きたいと願う心を絞め殺して。
いつもの逢瀬の場所。ピアノの椅子に座る成歩堂さん。重い腕を持ち上げてその背中に向ける銃口。
すまねぇと心の中で何度も謝りながらゴドーさんは引き金に指を引っかけてゆっくりと力を込めた。
響き渡る銃声。焦げ臭いにおい。薄汚い床にどさりと身体が落ちる。
驚いた表情で振り返った成歩堂さんは、銃を構えたまま立ち尽くす恋人と血まみれになって転がる弟とを交互に見つめた。
僕の命ならあげたのに。銀の毒で冒すなんて。この子は人間なのに。泣きむせぶ声が心臓を貫く。
ゴトンと落ちた銃にも気づかず、ゴドーさんはその哀しみを受け止めることしかできなかった。
許せない、と言い残し、成歩堂さんは弟を抱きしめて闇に溶ける。
恋人たちの逢瀬はそれが最後。
そこから先は、ハンターとヴァンパイアの永遠の追いかけっこ。
「法介、遅刻するわよ。起きなさい」
家中に響き渡る母の声に、俺は目を覚ました。カーテンを閉め忘れた窓から明るい朝日が差し込み、嫌になるくらいまぶしい。
長い、とても長い夢を見ていたようで、頭がぼんやりとかすんでいる。変な夢を見たなぁと大きくあくびをして上半身を起こした。
(吸血鬼モノの映画とか見た覚えないのに、なんであんな夢を見たんだろ)
まだ眠いとばかりにくっつきそうになる目をこすりつつベッドから降り、なんとなしに窓の外を見て息をのむ。昨日までそこにあった成歩堂さんの家がどこにもなく、土をむき出しにした更地になっていたのだ。
「お、お母さんっ! 成歩堂さん、隣にあった成歩堂さんち、なくなっているんだけどっ!」
ドタバタと部屋を飛び出して台所へ駆け寄ると、エプロンをつけた母がおタマ片手に首をかしげた。
「何を言っているの、法介。お隣はずっと更地だったでしょう、寝ぼけているの?」
「お兄ちゃんってば変なの。みぬき、先に行くね。ばいばーい」
俺の焦りや驚きをよそに、母たちは何でもない風に朝の日常を演じる。世界から成歩堂さんが消えてしまったのに、いつもの変わることのない現実が目の前にあった。
「あら、ポケットに何を入れているの。洗い物なら脱衣所に置いておくのよ」
言われてパジャマのズボンに目を落とす。右のポケットから半分顔をのぞかせているのは、ゴドーさんが俺にかぶせた青いニット帽。成歩堂さんが残した、唯一の置き形見。
「そういえば、法介、食器皿が一枚足りないのよ。昨日まではあったのに、今朝になったらなくなっていて……」
持って行った食器はどうしたっけと考えて俺は目を閉じる。まぶたの裏によぎるのは、成歩堂さんの笑顔とゴドーさんの白いマスク。それから、夢で垣間見た二人の遠い過去。
(ヴァンパイアとハンターの恋だなんて、ベタ過ぎて今時マンガでもないって)
閉じた目からぼろぼろと涙がこぼれる。涙腺が壊れたように流れ出るそれに、母が慌てて声をかけてきた。
(もう成歩堂さんには会えない。ゴドーさん、にも)
成歩堂さんはハンターから逃れるために旅立ち、ゴドーさんはヴァンパイアを追うために旅立った。どうして俺の記憶だけが残されたのかは分からないけれど、二度とこの地を訪れることはないのだろう。
(二人とも、元気で)
追う者と追われる者の果てしのない物語。闇の狭間で知った悲しい恋物語。
それは永遠の命が尽きるまで終わりはしない。終焉を迎えない限り、うたかたのままうつつの夢をさまようばかり。
(でもきっと、いつか)
想いは免罪符になる。咎は朽ちて鎖から解き放たれる。
成歩堂さんもゴドーさんも、かつての日々のように抱き合う時がきっと来るだろう。
早く永遠が終わることを願って、早く幸せが訪れることを祈って、俺は歯を食いしばりながら静かに泣き続けた。
お強請りしてお願いして、ようやくゲットした秀作です! 桂香さまにしか造り出せない、切なくて綺麗な世界に酔いしれます。続きがあるそうなので、皆で頼みに行きましょうvv
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